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            聴  法  録  104

聴法録104-1

人間が思想しないものであったら、何故生きているかと言う事も理解できないであろう。そうしたら、善悪の区別など勿論不可能である。だから、思想する事は、人間にとって最も尊いものの一つである。

「相愛せよ」という教えは、私達に愛の実現方法のみを教えるのではない。何物が愛の発言を妨げるのか、と言うことを示してくれる。この生涯から、愛の発言を妨げるものを除去する事は、最も貴重な仕事である。

宗教的な徳義訓と、良心との二つが人生を指導するように思われているが、実は良心のみが人間を導いて行くのである。良心は、私達の心にある神(真実の生命)の声であるからだ。この声は、人間の為に、「何を行なうべきか、何を行なってはならぬか」を示す警鐘でもある。人間は、誰でも、その場所と時とを問わずに、この声を聴く事が出来る。

眼は物を見る器械であると言う事を、知らなかったら人間はいつまでも、哀れな盲目でなければならないであろう。思想する力が、与えられてあっても、この使用を知らなかったら、矢張り不幸に陥ってしまうだろう。不幸などは、捨てて置けば自然に消滅してしまうのだと考えている者は、自ら無為な人間となってしまう。又、知に重きを置く人が、「人生の不幸は、人間の利益のために与えられたものだ」と考えて顧みなかったなら、その良心は鈍ってしまうだろう。

人間は多くの場合、その不幸を直視せず、顔をそらしているから、ますます、不幸と絶縁出来ないのである。
神が私達に真実の生命を与えて、若し意表に反する事に出合っても努力次第でその不幸を緩和するように慈悲を与えてくれるから、落胆せずに力闘すべきである。
私達は又、生まれながらに、独立心を持ち、肉親は勿論、周囲の人々から厄介になる必要はない。唯、神(真実の生命)の慈悲にすがって人生に勇往邁進してゆけばよい。
聴法録104-2

新しい思想を発見し、その正しいことを確認したら、以前に抱いていた思想を一つの記念物の様に大切に扱おうではないか、真理は人間の真実の生命が生まれながらもっているものであるから、いつまでも虚偽におおわれている筈はない。早晩必ず表面に現れるものだ。

真理のようであるが、少し疑わしいと思われる思想がある。こんな真理は信じる気持ちになれない。若し、こんな真理に出合ったら、反復熟慮した方が良い。
それが、純然たる真理なら、一度心に銘じたが、最後、いつまでも動かないが、虚偽の真理ならば、直ぐに動いてしまう。