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| 聴 法 録 132 |
聴法録132-1
人よ、汝の思想が道徳的であるように努めよ。
この世における強い権力は、物質である。こう考えるのは、常に私達が、この権力の下にあり、その力に圧せられているからである。内在する真実の生命の力、思想の力をこの物質に比べると、小さいように思われる、内在する真実の生命や思想が遙かに優れているのだ。この力は、私達個々の生涯を革新するばかりでなく、人類の生涯をも変革する大きな力を持っているのである。
内在する真実の生命は、体身を支配しているが、体身が内在する真実の生命を支配することは出来ない。故に、肉体の善化は、内在する真実の生命や思想の善導に依らねばならぬ。特に内在する真実の生命の善導を、人は慮るべきである。
人の生涯が、善悪不定であるのは、肉体と内在する真実の生命との関係が定らないでいるからだ。肉体方面に中心を置くと、真の生命がその力を失い、情欲、貪欲、争闘、増悪、死への恐怖等が盛んになる。内在する真実の生命的方面に重きを置けば、その生涯は向上し、情欲、争闘、増悪等は委縮し、人を真に自由なものとすることが出来る。そして、心は肉の脅威から、脱出し、道徳が立派に築き上げられる。これは思想の善導によって得られる結果なのである。
セルカが友人たるリユチニー書き送ったものに次のような言葉がある。「親愛なる
リユチニーよ、汝は自力で善を確立しようと努めているが、それは、実に立派な良いことだ。汝のような方法で勉勤するなら、恐らく誰でも目的を達するであろう。そうして進んでいくと、両手を差し上げて祈ることも、神(真実の生命)が耳を傾けるように、神殿の祭司に祈りを乞う必要も無くなるであろう。何故ならば、神(真実の生命)は常に私達の内にあり、私達が善に就くか、悪に従うかを注視しているから、神(真実の生命)が、私達をいかに遇するかは私達が神(真実の生命)をいかに遇するかに比例しよう。誠心、誠意を持って神(真実の生命)を尊敬するならば神(真実の生命)は慈悲深き手によって私達を撫育し、善導して下さるであろう。」
ある一つの事が善であるか、悪であるか、十分理解できずに迷っている時は、この世界から超然と離脱した心を以って、この一事を考える必要がある。社会の評判を如何に関心を持つのは、善悪の判断を誤るもとだ。人間の心が、精神的なものに没入してしまうと、総ての疑念が消えうせ、善悪の区別が明瞭になる。
誘惑に囚われないうちならば、誘惑と争うことも出来る。この世に於ける優慮や誘惑が絶えず起きている時には、これをよけたり、絶滅したりする手段を講ずることは不可能であろう。然し、この世の慮りや誘惑に絶え間のあった時、迅速にこれを避けたり、絶滅したりすることは、さほど困難ではない。
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