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             聴  法  録  136

聴法録136-1
克己
幸福は肉体の享楽にあるのだとして、神(真実の生命)と人間に対して愛を避けていると、遂に罪悪が現れてくる。この罪悪の脅威から、解脱しない限り、幸福はない。罪悪を避けるには、先ず、肉体の生涯を拒否せねばならぬ。これは最も困難な仕事である。並大抵の努力では不可能だ。ここに克己の必要が生じてくる。

肉を避ける道程
肉体の罪である淫行、驕奢、過食、吝嗇などは、肉体が「我」を認識して、これに内在する真実の生命を随わせようとすることによって生ずるものだ。罪悪からの解脱は、「我」を主としている肉体を内在する真実の生命に随わせることによって可能である

イエスの弟子たちに言いたもう。人もし我に随い来たらんと思はば、己を捨て、己が十字架を追いて我に従へ。己が生命を救わんと思うものは、これを失い、我がために己が生命を失うものは之を得べし。人全世界をもらうとも、己が生命を失はば何の益あらん。又その生命の代わりに何をか与えんや。

之によって父は我を愛し給う。その我、再び生命を得んために生命を捨てる故なり人これを我より奪うにあらず、我れ自ら捨てるなり。我これを捨てる権利あり、又これを得る権利あり。我がこの命令をわが父より享けたり。

人間が肉体の生命を捨てることは、その中に、肉に反する内在する真実の生命が潜んでいる所以を、示すことによって始まる。

肉体に重きを置けば、それだけ多く真実の生命の力を喪失する。肉体の利益を多く持ってくる者は、真実の生命の利益を少なく持ってくる。肉と真実の生命と、どれが私達に必要であるか、十分に考えねばならぬ。


克己とは、自分を捨て去ることではない。「我」を獣的の欲望から解脱させて、内在する真実の生命の世界へ移すことである。克己とは、肉の生命を捨てることでなく、その生命を肉の世界から遠ざけ、その中に内在する真実の生命の生命を拡充することである。

肉体の満足を幸福としないように、智慧は人に教えている。然し、智慧の力は、これを断絶させるのではなく、それに適応した幸福を見つけてくれるものだ。肉の生命を捨て去ることは、大事業であると一般の人は主張するが、それは間違っている肉の生涯を捨てるのは、人間の義務であるが獣類のためには肉の生命は幸福で、又その目的でもある。人類も、これによって継続されていく、人類の繁殖は生存競争の一条件であろうが、生命の真の幸福とは一致しない。真の生命、即ち内在する真実の生命の生涯とは、宇宙の大いなる真実の生命と人に内在する真実の生命との和合帰一することである。

朽ち果てる肉体に、自己を委ねない者のみが生命の真理を知る。