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| 聴 法 録 140 |
聴法録140-1
獣的の「我」より遠ざかり、内在する真実の生命のうちに神(真実の生命)を求めよ
肉の「我」から遠ざかった人のうちに、神(真実の生命)は現れる。肉は、人の内に在る神(真実の生命)を覆い隠すものである。
宇宙の「我」を知る為には、先ず自分の「我」を知らねばならぬ。この「我」を求めるならば、自己の「我」を宇宙の「我」に捧げるがよい。
自己に勝つ者は強い。私達の「我」は、神(真実の生命)を隠し、私達の「我」に勝つ者のうちにのみ、内在する真実の生命が働くからだ。
この世を侮ったからとて、それは少しも名誉にはならぬ。神(真実の生命)に仕える者の心には、この世も宇宙もない。すべて白紙だ。
肉の生涯を避けることは尊く、宗教的な行為である。私達の心に注入されている意志を行なうために、自己の肉体を避けるのは必要であり喜ばしいことでもある。神(真実の生命)の意志や人間の意志を遂行するためではなく、慢りに肉体の生命から遠ざかるのに、貴くも必要でもなく、却って自己にも他人にも有害なことである。
肉体は「我」のために滅亡するが、内在する真実の生命は神(真実の生命)の為に甦える
謝意を表すためや、喜ばれるために何か他人に行うのは徒労だ。神(真実の生命)に仕える一念で善を行なうなら、それは自他ともに十分な価値があり、又、人から感謝されるであろう。自己を没却して、善のために善を行なう者を、神(真実の生命)は常に認めているが、自己を目標として善を行なう者は、決して神(真実の生命)の眼には止まらない。
他人には何も要求せず、又受けようとも思わないなら、彼らに憚ることも少しもないミツバチがミツバチに出逢ったとて、又、馬が馬に出逢ったからからとて互いに懼れることはない。然し、自己の幸福が他人の圏内にあるならば、人を憚らなくてはならないであろう。この恐怖から逃れんと考えるなら、先ず自己に属さないものから遠ざかる必要がある。そして、富、名誉、職務、尊称、などには冷静な態度を執り、又自己の妻子兄弟に対する待遇を誤ってはならぬ。そして、自己に対しては「総ての事は我が圏外にある」達観すべきである。こういう美しい生涯に達するには、どうしたらよいか、それは、私達が自己の意志を、神(真実の生命)の意志に従わせつつ行動することによって、成就する。若し、私が熱病にかかった場合、これは神(真実の生命)の意志に協なら、喜んで熱病を受け入れよう。ある事を成就するのが、神(真実の生命)のみ心に協なら私は喜んでこれを遂行しょう。又、神(真実の生命)が私に死を命じたり、拷問を望むなら私は死も辞せず、拷問に耐える準備がある。
意志の求めるところうを、あまねく実行しても、彼は満足しないであろう。然し、意志の理由なき、要求をさけて見よ。たちまち満足が得られよう。私達が、意志のためにのみ行動していたら、常に満足は得られない。よしんば意志の要求をよけたとて決して完全な満足と言うものはないのである。だが、こんな場合に、唯一つの善なる行いがある。それは「自己増悪」である。人間は、自負心の為に増悪されるのが当然であるから、自己を増悪する人は愛にふさわしいものを求めるようになる。然るに、私達は自分以外の何物も愛さないし、又この愛に相当するものを見つけないただしこの愛に相当するものは、唯一つの宇宙の実在である。聖者に曰く。「神(真実の生命)の国は我等の上に在り」これは、「宇宙の幸福は私達の内に在るが、それは私達だけのものではない」という意味である。
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