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| 聴 法 録 147 |
聴法録147-1
誘惑は傲慢から生ず
人の心が神(真実の生命)に向かっている時には、決して自分の行為に満足するものでない。そして、彼の心がどれほど進歩しても尚完全を期するに至らないと感じるようになる。完全には最限と言うものがないのである。
自信は獣的であり、謙遜は神(真実の生命)に近い。
自己をよく知る人に自尊の念は湧かない。
自己で満足する人は、他人で満足しない。自己で満足しない人は、他人で満足し易い。
ある人が賢者に「あなたが悪人と見倣す人がありますか」と尋ねた。すると彼は「そういう人を私は知らない。然し、若し私のことを誰かが完全に知ったら、一体何と評するだろう」と答えた。
自分の欠点に寛大であり、他人の悪事に細心な人は、自己の悪事を平然と看過する。謙遜な人は、それと全く反対の行動を執る故に、私達のためには、貴い存在である。
自己の行為を注意深く調べると、自分がどんな罪を犯しているかがよく解る。この世における不均等な境遇によって、私はある特別な位置にある事を感ずる。この境遇は他人との交際に不便を感じさせるものだろうか。又、この境遇にあることは罪悪であろうか。自己の功名を人に誇って、彼等よりも優れたものとするために、自己の検討は邪魔になる。
他人の眼を借りて、自己の行為を検討すると、その欠点が鮮やかに映る。
自己の為に、他人は鏡のようである。この鏡には、自己の悪癖、欠点、悪行などがよく映る。鏡に映った自分を見ると、比喩にある犬の水鏡のように、己の顔に吠え掛かりそうな気がする。
自信の強い愚かな不道徳漢が、謙遜、怜悧な道徳人の浮くべき尊敬を受けることがままある。真実に謙遜のある人は、自己に準じて人を判断するから、不道徳漢をりっぱな人間と見倣することがあるのだ。
自惚れに競争者はない。
野趣に富むが学識が無く、文化に縁遠い人は、真面目にキリスト教を奉じてその教えに従うが、反対に世の学者や識者等は異教徒に異教主義に流れている。これは嘘のような真実である。何故だろうか。野人は却って謙譲であるが、学者は自身が強く傲慢であるからだ。
生死の平然たるためには、自己は塵埃のようなものだということを十分に理解していなくてはならぬ。我とは何か。我とは一個の細胞に過ぎないのである。若し自分に何等の位階や尊称もないなら、恐らく何の価値もないであろう。
自己の貴い所以は、この尊称あるがためであり、その生涯が清く重厚なためではない。自己の仕事は、他から与えられたものであって、その能力を有意義に発揮し人間としての使命を正しく成就する者でなければならぬ随って、如何なる仕事も、これが天職である事を知ったなら、意義の軽重など問う必要はない。
私達には、天命より以外に行うべきことは無いのである。天命に従う者は、神(真実の生命)の意志の実行者であるが、命令に従はぬ者は、神(真実の生命)えの反抗者である。
要するに、人間は自己にあまり頼りすぎてはならない、自己を頼るものには立派な仕事をすることは不可能である。
自分のために何か仕事をしょうとすると、直ちに争闘や嫉妬を始め、抜き差しならぬ境遇に陥ってしまうのである。果実が立派に実を結ぶように、人間も為し得ると信じることを行なって、実を結ばねばならぬ。うっかりしていると、滅亡はすぐ目前に迫ってくるのである。
キリストの下僕、その道の労働者として仕事を励みつつ生涯を送る人は、生活の安定を得て、自由と安楽のうちに、死の脅威から逃れることが出来よう。
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