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| 聴 法 録 160 |
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聴法録160-1
妄信を維持するもの
智は人間の為に唯一つである。人々との交際や共同の仕事は、総て智に基づくものである。智の求める所には、人々のための必然的な義務がある。
人間の智は、生命の機能を備えているから、智が肉体を働かせるようにしない限り人はなかなか自由なものとはなれない、智によって照らされた人の真実の生命は、光を曇らせる欲情から解放されて、大盤石の如く揺るが無くなる。こうなれば、悪の入り込む隙などは見出されない。この道理を理解し得ない者は、精神的の盲人であり、これを知って利用しないものは不幸な人である。
神(真実の生命)から得ている光輝ある智慧の力を、十分に発揮させることは、私達人間の重大な義務である。
キリストの教えは、私達の智を呼び起こして、強健にし、高貴なものとする。然し、この智は、単にキリスト教を信ずるというだけでは満足しない。キリスト教徒というだけで、これを獲得できるなら、仕事や行為の選択に何等の躊躇も必要がない訳だ。そのためには、貴い智慧を犠牲にして、仕事や行動を取る必要や義務は少しもない。人間の本能たる智を放棄するほど大いなる恥辱はない。この恥辱を敢えてすれば私達のうちに在る神性に背き、これを冒瀆する結果になる。
智は、人間の天分の流路である。そして、唯一つなる神(真実の生命)と、無限の宇宙とに対応するものであり、又、人の心に於ける至上者の反映でもある。
物を見ることの出来ない人は、憐れむべきものである。だが、彼等より一層憐れなのは、有効に使用すべき智慧が与えられてあるのを知らない人である。
私達には、人生に於ける種々な不愉快を忍び耐えるだけの能力が備わっている。これは智の力である。然し、中には不愉快なことに逢着すると、直ぐに逃れようとする卑怯なものもある。神(真実の生命)は私達に自由な意志を与えた。そして、私達の行動には少しも干渉せず、如何なる困難にも打ち勝つような力を私達の真実の生命に与えている。死にすら膝を屈する必要のないようにした。そして神(真実の生命)は、人間が自己の善な思想に随って行動するのを、喜ぶのである。
私達が神(真実の生命)に仕えるために、神(真実の生命)は私達に智なるものを与えたのである。私達は、この智を健実に守り、真理を虚偽の中から選り分けて進む義務を持っている。
真理が確立した時のみ、人は智であり自由なものである。そして、真理は智によってのみ発見されるものだ。
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