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             聴  法  録  161

聴法録161-1
智慧は信仰の根拠を検討する
宇宙と人間の存在理由を究明しようとして、私達がその智慧を酷使して研究を続けていると、遂には気が遠くなり、眩暈を感じて正しい答えを得られなくなる。これは一体どんな訳だろうか。人間の智は、この問題を解決する力を持たないのだろうか。ある人は、智慧が解答しえる問題は、人間の処世方法に就いてであるのみという。世に処するというのは、「自分も他人も共によい生活していく意味である。こういう生き方は、全人類の責務である。この真理は智を働かせて考えれば直ぐに解る。又、これを解し得たなら、宇宙と人類の存在理由などは、容易に解決できよう。

私達の行動は正しいか、正しくないか、民衆を迷妄に導くものではなかろうか。見よ彼等の未開で野蛮な状態を。民衆が野蛮なのは、欺かれているためではなかろうか。彼らの行動に正義を欲するなら、先ず、彼等を欺瞞から救い出さなければならぬ。

信仰の目的物たる神(真実の生命)は、私達人間の解放を超越して、到底私達の智慧で説くことは出来ない。だが、人間の智を有害無益なものとして軽視するのは、甚だしい誤りだ。信仰の目的物は、私達の理解の外にあるが、私達の持つ知恵は、これ等の間に介在して、重要な意義を持っている。智なくしては、何事も不可能だ。智の役目は丁度検事のようである。智よりも高所にある信仰を、その眼下に検討する。形式上の理論も、彼の鋭い検討にあって検討され、彼の存在に矛盾する似而非真理は、その一蹴りによって、消散してしまうのである。更に、智は、この積極的な仕事の外に消極的な仕事もする。即ち、罪悪、誘惑の弁護、虚偽の信仰から人間を解放する。

汝は自己の為に燭台となり、隠れ場となれ、そして、汝の燭台を高く掲げ、他に隠れ場を探し求めるな。

「光の子ならんがため、光あるうち光を信じよ」偽教師が教えるように、自己の智を抑えつけるな。真正の宗教によって、自己の世界観を作るためには、私達に与えられている総ての理屈と道理とを検討せよ。万物を包含する「我」を調べんと欲するなら、先ず、自己を調べよ。自己を知らんと欲するなら、自己の「我」を宇宙的なる「我」に犠牲となせ。自己の真実の生命によって生きんと思うなら、自己の観念から外界のものを遠ざけよ。心中に起こり来る幻影をさけよ。これは、汝の真実の生命に暗い影を与えぬためである。汝の心は、常にこの幻影の起伏に悩ませる。然し、汝の心中にある永久なるものは、虚偽と真理とを明瞭に分別する方法を教えるであろう。