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             聴  法  録  167

聴法録167-1
悪を検定する場合に往々誤りが生ずる
人間は、不幸に襲われると、他人を恨んだり、自分の運命を呪ったりする。若し、他人が私達に何か不正なことをするなら、それは私達の方にも何か良くないことがあるに違いない。運命もこれと同じことである。私達に何か悪いことがあるから、悪い運命が訪れるのである。然し、真実の生命に生きている人のためには、如何なるものも悪を為すことは出来ない。迫害、侮辱、貧困、疾病なども、真実の生命に生きる人にとっては、何等の痛みも感じないのである。

宇宙の生命から自己を切り離して、生涯を送る人は、自己の罪悪を世の中に運び込んで、その呵責による苦痛から逃れようとするものである。自己の罪悪を認識するのは、人間にとって耐え難い苦痛である。

悪と言うものは、私達人間のうちにのみ、根を下ろしているが、その根は抜き取るに便利な場所に下ろされている。人生を苦しめる不幸や罪悪の姿を見て、軽率な人は生涯を改善する希望を失い、宇宙を支配する神(真実の生命)の津法に対して大きな不満を抱く、勿論、これは甚しい誤診だ。
神(真実の生命)の津法は、人間の地上生活が困難に満ちていることを予知させる。
苦しい生涯のうちにも、勇気を失はず、その運命に罪を被せず、自己の罪悪を注視しつつ生涯の改善を考えるのが重要である。生涯に失望し、勇気を喪失し運命に罪を被せることは、総ての悪の原因になる。

神(真実の生命)が地上に遣わせる不幸を、逃れる手段はあるだろう。然し、自分の手で悪化させたその生涯を救う手段はない。

自己の不幸は運命が招いたものだと考える人は、その生涯の地位も失望的である私達を罵倒しない人は善人で謙譲なのであろうか。若し、私達の生活に暇が多かったら、それだけ神(真実の生命)を厚く信仰するであろうか。又、常に壮健であったなら、苦しみを忍べるのであろうか。私達が知名であったら、必ず一世を驚倒させるような大きなことが成就出来るであろうか。
私達が、人生においてしめている現在の地位を聖化できないなら、どんなに優れた地位を得たとて、変化はおぼつかない。どんな地位でも、かならず困苦を伴うものだ。私達が、善行や聖なる心を以って困苦を忍ぶのは、これを緩和させ、消滅させるためだ。人生の暗い地位は、真実のいのちの働きと神聖なる光で照らすためにある。悲哀は、忍耐と温柔とを働かせるためにある。又、この生涯のうちに危険が多いのは、勇気を養うためである。誘惑の多いのは、常に信仰を高めて、これに打ち勝つためである。