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             聴  法  録  168

聴法録168-1
困苦は善を教える
内在する真実の生命を発達させるためには、苦悩の意義を探さねばならない。この意義を見いだすと同時に苦悩は解消する。

この世における一切の出来事は、人間の真の幸福に導くものであると悟り、且つそれを信ぜよ。このように考えが定まると、疾病、貧困、屈辱に対しても一向平気になる。又、他の人が不幸と考えるような運命に出逢っても、不幸と考えられなくなる。そして、生涯が幸福であるために、その不幸や災難は、農夫が雨に濡れて田に働き、病人が苦い薬を飲むようなものと思うようになる。

健康の喜び、交際の熱情、労働の楽しみなどを、私達は失っているために、太陽は熱を失い、生命はただ失望の塊のように思われ、総ての自由が無くなったらどうであろう。これに対する答えは一つである。それは義務の遂行である。良心が平静であり、心中に平和が張り、自分の立場は明瞭である。と自覚出来るなら、何も言う必要はない。又、かくありたいと願うように総てのことが動いているならば、
それでよい。それ以上は神の掌るところで、私達にはどうしょうもない。
若し、真実の生命のために至善なる神がなく、ただ広汎にして偉大なる実在、厳然たる宇宙の法則のみがあって、人の霊感も現実もなく、ただ智のみが存在したからとてそれだけでは義務の解消は不可能である。神秘と言うものは、進展する人生に、暁の明星のようである。


智なる人の特徴は、自由なる心で運命に従う者であることを記憶せよ。この運命に反抗して争うのは獣類にふさはしき行為である。

私達を悲しみの淵に沈め、重要時の遂行を妨げるように思われる事態の中には、案外に生涯の重要事が含まれている。貧困、疾病、侮辱などに圉続されながら事を行なう時にも、その行為が徳義に協ものと考えるなら、悲哀も失望も忽ち消散して、元気と自信が満ち満ちてくる。

背負っている十字架を捨てれば、他の負担がさらに重くなる。

運命を喜んで迎えるのは、頗る重要だ。その軽重、難易は、敢えて問う必要がない

どんな悲しいことでも、実際これに出逢えば、思ったほどは悲しくない。

人間は、誰でも十字架を背負い、首枷を嵌めている。然し、これを苦痛と考えてはならない。何故なら、苦痛は生涯の伴侶である。私達が、十字架を苦痛であり不幸であるとせず、生涯の使命であると考えれば、決して辛苦ではない。私達が、心の奥底から謙遜、平和、温柔であるなら、十字架を負う事などじつに容易である。若しそれ「自我」の念を去り得るなら、十字架も軽過ぎよう。キリストが教えたように、常に十字架を負っていれば、これは羽毛のように軽くなる又、その仕事に熱中しているなら、その労苦には気付かないであろう。そして、この仕事が精神的のものであるなら、一層軽く思われよう。生涯は、常に熱と活気に満ちたものであれば、喜んで苦しめ。侮辱されても善を以って報いよ。軽蔑には謙譲をもって答えよ。死は、感謝を以って、従容としてこれを受けよ。

車に付けた馬が、車を引かずに暴れ回ったら必ず疲れる。だが、頑固な馬子は平気で鞭を当てて車を引かせようとする。人間も、これに似寄ったところうがある。悲哀を生涯の試練として受けずに、無用なる惨忍事とするときは、その馬のように荒れ狂うだろう。然し、それでも運命は己を曲げはしない。

敵の教訓によって、敵を愛することが出来るなら、悪から大いなる喜びと幸福とを摂取出来ぬ筈はない。

疾病によって四肢の一つを失い、不幸な出来事によって資産を失い良友の死によって心の損失を被るのは、非常に苦しいことだが、過ぎ行く年月は異常な力でこれを癒し終に痛手は跡形もなく拭い去られよう。