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| 聴 法 録 171 |
聴法録171-1
死
生命は、身体にあると信じるなら、肉体の死と同時に生命も消え失せる。だが、生命は内在する真実の私にあるから終わるときはない。
生命は身体の死では消滅しない
生から死までの人間の生涯は、朝に目を覚まして、夕に寝るまでの一日によく似ている。朝目を覚ますと何処に眠ったか、誰に起こされたか、少しも解らない。眠っていると、目が醒めて起き上がるように思う。然し、確然り、目が醒めると、自分は何ものであり、何処に居るのか、昨日は何をしたかを思い出す。そして、頭のうちに思想が湧き上がり、やがて、その日の仕事に取り掛かる。このようなことが、生まれたばかりの子供にもある。彼は日を重ねるに随って、第一歩とその生涯に入り身も心も力を増し、智慧も進んできて、動作は合理的になる。人が眠りから醒めて仕事をする、短い時間のうちにも行為の善悪の行為が認められる。
幼児から成人、成人から死までの間には、どれほどの善悪の行為あるだろうか。人の一生は、一日の生活に似たところうが多い。あかつきに起きでて働き、努力し、他の人の世話をする。日が高く上ると彼は元気を増す。正午になるころには少し倦怠を感じ、夕方になると体力が減じ、疲労を覚えて休憩したくなる。人の生涯を見ると青年時代は勇気に満ち、愉快に日を送る。中年に達すると、血気の勇がなくなり老年に及べば、休憩や慰安を欲くするようになる。この状態は、白日の後に晴夜がくるように、人の心は鋭さを失い、頭が働かなくなり、思想が混乱し、感覚が鈍くなる人は死に襲われるのもこれと同じようだ。
あかつきの目覚めは生命の始まりで、それから夕刻までは人間の一生の活動時であり、夜の睡眠は小さな死ともいえる。
雷鳴がして電光が閃く、雷がかならず人を殺すとは限らないが、ごろごろピカピカすると誰でもいやになる。死に対する私達の感じも丁度これと同じようである。生涯の意義を知らない人には、死は万事の終りである。だから彼は恐れ、彼から逃れ去ろうとする。丁度、雷鳴をおそれる者に似ている。雷はめったに人を殺さないが、死は必ず人を殺してしまう。
甲はゆっくり歩いて、私達が見ているうちに視界を去った。己も同一地点から歩き出したが、ひどく急いで忽ち視界を去ってしまった。急いだ者はゆっくりした者より早く目的地に達するだろうか。通過した地域は、違っていたろうが。私達の人生は、急いでも急がなくても、更に変わらないのだ。ただ頭に残るのは、ある地点では家の窓下をある地点では、林の中を通過したというだけである。その家や林は、私達が見る以前も、その後も、存在するであろうが、私達の生命はこうはいかない。この世の長短は、これを知り得ないが、私達に死が迫ってくるのは予知できるのである。
不死の信念は他から得る者でない。又、不死の信念は自分自身に吹き込むことは出来ない。この不死を信じようとするならば、先ず、自己の生命の不死を信ぜよ。
死と言うものは、私達の真実の生命の私の外皮を付け替えることである。外皮と、その下に包含されているあるものを混有してはならぬ。
汝は一か所に止まっていない。常に進みつつある。丁度、死という目的地を目指す客車中にいるようなものだ。然し、汝の真実の生命の私は永久不変のものである。
人間の心中に潜む或るものは、自由であり、知的であり、肉的なものではないが、これは明確に自覚できる。然し、その明らかな存在を証明することは不可能だ。こういうものに死はふさはしくない。
内在する真実の私は不死だという私の信仰が、若し、誤っているなら、私は幸せ者でこの誤りに満足しょう。だが、私が生きている時には、どうしても、この信仰を失うことは不可能だ。そして、彼は、私に安静と満足とをもたらすであろう。 |
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