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             聴  法  録  173

聴法録173-1
死は内在する真実の私の生命を脅かさない

死は、生涯の難問題と、苦悶とを容易に解決してくれる。従って、内在する真実の私の生命の不死を信じないものは、死を恐れ嫌う。これは内在する真実の私の生涯よりも肉の生涯を送る人が多いからである。

苦痛と死を、人が嫌うのは、動物的存在を生涯の法則と定めているからである。人が、獣の世界に入り込むと、病苦や死えの恐怖が
甚だしくなる。彼は周囲の人々に大声で呼びかけて、ただ一筋開いている人生の大道である愛の世界え人々を誘い込む、然し、苦と死とは、愛による生涯の法則に矛盾するものであるから、人間が完全な愛の法則、つまり内在する真実の私によって生きていくならば、苦痛も死もない筈だ。


一群の人が、鎖に繋がれている。彼等は遍く死刑の宣告を受けたものなのだ。彼らの中の或る者は、毎日衆人環視のうちに刑の執行を受けている。刑の遅れたものは、これを睨みながら恐れおののいて自分の順番を待っている。
人間が、その生命の意義、愛の奥義を十分に理解しない限りは、この一群の人のように恐怖の日を送らねばならない。だが、若し、人間が、自分たちのうちには神が在って、神と融合できることを知っていたなら、彼に死は存在しなくなる。従って、死を恐れる必要は毫末もないのだ。

死を恐れるのは、幽霊を恐れるようなものだ。幽霊を恐れるのは、無いものを有りとすることである。

私は自分の家の庭を愛し、書斎で読書することを好み、小児と戯れるのが気持ちよい。若し、私が死に襲われたなら、この至上の楽しみは消滅してしまう。がから、私は死を恐れ、死を欲くしないのである。成程、私達の生涯が、こんな希望や快楽からのみ成立しているものならば、その生滅を恐れ嫌わざるを得ない。だが、このような希望や快楽を棄てて、神(真実の生命)の意志の遂行を希望し、それを快楽とするならば、私達の生涯は全く違ったものとなる。
即ち、私達の生活は全く精神的となり、現在のままであっても、死を恐れず、死を無視するようになる。若し、私達のこの世に属する希望が消えうせ、総てを神(真実の生命)の意志とするならば、私達の生命は全く別のものとなり、死も苦痛も消散してしまう。これは時間的のものだ。時を超越したものに変化するからである。これこそは、生命の道であり、幸福の巷に踏み込む第一歩なのである。

内在する真実の生命によって生きるもののために、肉体の死は単なる解放であるだが、苦というものは、この解放の一つの条件でしかない。反対に肉のみによって生きようとする者はどうあろう。彼が唯一の根拠とする肉体を苦しめながら、雑作もなく消滅するのを見て、一体どんな感じを抱くであろうか。
動物は死を意識しないから、死の恐怖を知っていない。然し、人間は死を待ち、その必然を認識する力を持っているから、死の予知によって心は戦き、時として恐れるあまり自殺を敢行する人もある。これに対する解決能力を持たぬ私達も、その中の唯一つの事は知っている。それは、私達が智を尊び、その生涯から肉を、内在する真実の生命に移すことである。かくて、私達の死えの恐怖は消滅し、死を待つこと、宛も楽しき家に帰るが如きとなろう。