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             聴  法  録  175

聴法録175-1
不死なるものによって生きよ
子は常に父母の家に住むが、雇人は一時的の寄食のみである。子が父母を慕うのは、雇人のように軽薄ではない雇人は受くべき給料を受け取ればすぐ自分の家に戻ってしまう。人間が、その死によって自己の生命が終わるものでないことを知ったなら雇人のように漫然と給料を受け取って、それで無事終わったのだとは考えず、子が父母に考であるように働き出すであろう。人間は、先ず父母の子であるか、雇人であるか、或は肉体の死によって自己が滅却してしまうのか、それとも不死なものかを、決定してかからねばならぬ。そして、人間が不死の生命を持ち得るものだと理解できたなら、この世のことや、肉体とともに消滅するもののことに心を煩はさず「死」に属さない行動に、自己の力量を傾注して、雇人とは違って主人の子の如く行動せねばならぬ。

永劫の生命を得ようとするなら、自己の真実の生命を信じるところうを確立し、何物にも迷はず、宇宙と自己との間に、徳義上の新関係をつくれ。

人間の生命が、肉体の死によって終るなら、死は人生最大の不幸であり、至難の問題である。誰でもこれを研究せずには居られないであろう。然し、人間は内在する真実の生命に於いて不死であると決定すれば、最早、問題は別種の色彩を帯びて、人生は誠に喜ぶべきものとなる。この問題の決定如何によって、私達の行為は智なる意味か、愚かなる意味かになる。
私達の思想は、肉体と供の動き、供に死滅するものであろうか、或は、その幾分かが残るものであるかという問題は、矢張り重要である。若し、全部ではないが、その幾分かは不死であるとするなら、不死のものと、死滅するものとを定めなくてはならぬ。この問題がよい意味に決定するなら、私達は、死に導くような罪悪を行はず、生命を与えることのみを選んで行うであろうから、その生涯は全く別の内容を持つようになる。何れにしても、私達の真実の生命を震わす「不死」という叫びは、私達の心に在る神の真実の生命に外ならぬ。

来世に関する教えを聴き、未来の存在を信ずる人々のうちに、不品行、不徳義を行なって少しも恥じぬ者がある。彼等は、自分の行なった不徳義は、楽園に入る妨げとはならないといって、その悪行を避けようとしない。
ある高徳の人は「万事は死と共に消えてしまったし、人々が持っていた善の思想も来世の翼望にまでは届かないのだ」この考えは、智に基づく好い思想に符合しないそして、善良な行為は、来世に対する希望によって行なうものでない。来世の生命を信じることは、善良な真実の生命が受ける能力に基づくものだと考える方が、人間の天性や風習に協うものである。この結論は、徳義的信仰の帰着点であり、多くの偏見や詭弁に超越している。そして、これは、人々を邪道から正道に導くものである。