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| 聴 法 録 178 |
聴法録178-1
不死なるものによって生きよ
若し、私達が眠っているうちには、自分を一定した地にあるものと認め、目覚めた時には、不定なものを変化極まりないものと認めるなら、その思想は睡眠中には正確であり、醒めている時には不正確なものとなる。これは正しいことではない。夢と違って現実の私達は、徳義的要求を満足させる生活をし、本能に従って合理的の行動を続けている。
睡眠中に悪や不道徳を夢みても、これを抑圧することは出来ない。私達が、徳義的要求に従って行動することを知らず、睡眠中の夢が、実生活の確実性を持っているとしたらどうであろうか。私達の全生涯は、文字通りの夢幻になってしまう。こうなると、私達の持つ自由の徳義的要求に従うことが、現在持っている生涯の真価よりも大なるということを理解し得ないようになる。
私達の持つ、この小さな生命が自分のものであるならば、私達の出会うべき死も自分のものの筈だ。若し、そうなら、私達は自己の望むことは、何事に限らず行える訳である。
自分の将来を予知できないで、どうして生きていられようか、と多くの人は言う。だが、よく考えると、私達人間は、将来は愚か現在さへもよく解っていないのである。この現在が、明瞭に解るようになるのは、私達が愛の表現を知り得た時からであって、この瞬間から真の生涯が始まるのである。
「この世では、最早することが無くなったから、死ぬ時が来たのだろう」という人がある。「もうすることがない」とか「死ぬ時期が来たのだ」などとは、なんという愚かなことであろう。この世の私達の仕事はいくらでもある。そして、死が近づくほど、仕事は重要度を増し、精神的生活の可能が増大するのである。
「どんな仕事をしていても、直ぐ仕事を止められる準備を忘れるな」この言葉は、汝の座右銘とせよ。この言葉を忘れずに、仕事を続けていると、仕事は常に進歩する曰く「死が待っている」のである。
愛は死を恐れない。愛は死の思想を拒否してしまう。
ある老農婦が、死の数時間前に、その娘に向かっていった。
「冬に死なないで本当に良かった。今は夏なので、私は嬉しい」
「お母さん、それは、どういう訳なの?」
と娘が問い返すと、老いたる母は死の苦悶をこらえながら答えた。
「だって、お前、冬に墓穴を掘るのは厄介じゃないか‥‥」
この老婦は、こうして、真に喜びながら死んで逝った。何故なら、彼女は、死の瞬間まで、自分のことを考えず、人のことばかり考えていたのである。
古語に曰く、
「愛せよ、然らば、汝の死は消え失せん」
この世に生を享けた時、汝は大声で泣き叫んだ、周囲の人は喜んだ。だが、この世を去る時には、周囲の人は泣いても、汝は喜びの笑顔を忘れぬようにせよ。
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