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| 聴 法 録 18 |
聴法録18-1
私が涙を流して感動し、慈悲というものをひしひしと感じ、私に生きる力を与えてくれた、その教えこそは、「私は生かされて生きていた。私はすでに救いの中にあった」ということだった。太陽、月から空気、水、大地、海、山そして草木にいたるまで宇宙万物全てのものが、私一人を生かそうと働き続けて下さる。
太陽は私一人のために出て下さった。雨は私一人のために降って下さった。米は農家が作ったものではない。農家が育てたものである。魚は 漁師がとったもので作ったものでない。こうして私たちは、人間を超えた力、大いなる「生命」の中に生かされて生きているのである。大いなる「生命」の働きにいうのはどこか遠い所にあるのではない。太陽となり、月となり、風雨草木となって、私たちを生かし続けておられる。
この事が、本当にわかったのが信心であり、救いである。私たちは、自分の力で生きているのではない。それだけではない。大いなる「生命」の働きによって、両親を縁として生まれ、その働きによって生かされて生きている。娑婆の縁が尽きれば、大いなる「生命」の世界に帰る。これが私たちの本当の姿なのである。
「人間は本来助かっているのです。生かされて生きている、それに気づかしていただくことだと思います」私たちは、この事を知るために生まれてきたのです。せっかく人間に生まれながら、ただ仕事だ、金だ、名誉だと、それだけで終わる人生なら悲しいことであり、人生そのものが空虚になってしまう。
生かされて生きていた私は、大いなる「生命」の懐の中にあった。このことに心の底からうなずけた時、人間は本当のよろこび、心の安らぎが得られるのではなかろうか。みんな生かされて生きておるのです。それに気づくだけです。信心と言うのは難しいものでない。自分の力で生きておるのでないです。息も何かしらんけれども、おのずから出ているのです。
心臓も勝手に動いている。こっちに相談なしに、止まる時も、勝手に止まるのです。あの心臓とか息が出るというのは、すでに我が手にないのです。我が手を超えたところにある。それを大いなる「生命」の働きというております。
この人が大いなる「生命」の懐の中にあったと言うことがわかった。昔の人はそういうことを「ほとけのふところ住まい」とこう言った。それは大いなる「生命」の中に生かされて生きている事実を指摘した言葉であるとこう思います。
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