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| 聴 法 録 181 |
聴法録181-1
死に就いて
私達の滅亡を死と名づける。だが、生命の滅亡と私達の意志とは、何等の関係もない。これは第一で、第二には、死を迎える事である。死を迎える事は、私達の持つ権利によるものである。その心は一つである。この故に私達は、善い死を迎えるように、努めなくてはならぬ。
死に直面した人の境遇はロウソクに火を点じて、悪事や悲しみの書物を読むに似ている。この読書は平常よりも強い感情を私達に与える。既往の出来事が、如実に脳裏に甦ってくる。だが、ロウソクの光が薄らぐと同時に、自分の力を失い、やがて永久に消え失せてしまうのである。
死に際して苦しむ者の心は、生きている者の境遇を理解し易くなる。然し、この理解は、多くの場合、真実から遠ざかったものである。これは智力が衰えたからでなく、理解の目的物が違っていたからである。この目的物は、生ける者には理解し得ないから、ただこれを鵜呑みにするだけである。
「老人の生命は大切ではない。彼は生き残った日を送っているに過ぎないから」とある人は言う。だがこれは誤った考えである。真に価値の多き貴い生涯は、老境に入ってから始まるものである。生涯の価値、死に近づくか、遠ざかるかに定まるものだ。即ち、人間の価値は、死に近づくに随って増加するのである。この真理を、老人自身が十分理解し、更に周囲の人々が、これに共鳴すればよいのである。そして、生涯の最も貴重なものは、死に直面した。その瞬間である。
私は、死を恐れているだろうか。多分、恐れてはいないつもりだが、死が近づいたと思う時、或いは死に就いて考える場合には、幾分かは心に苦悶が起こる。この苦悶は汽車旅行をして、乗っている列者が崖から海中に転落する時の感じか。或いは高い山から吊り籠に乗って揺られながら下りる時のような感じでもある。私には、死が近づいたからとて、何も特別な感じが湧くとは思えない。万人が感じるであろうような気持ちを得るに違いない。然し、死がますます切迫したら、危険な地点を行くときのような心臓の鼓動は人間が、その生涯のうちに愛着する総てのことは、単なる偶然の出来事のようであるが、実は、万物に連絡があって、一つの出来事は他のことによって説明がつくのである死は、生涯と何等の因果関係もないように考えられ、生命の単純さと明朗さとを破壊するものの如くに感じられる。この故に、人間は死に就いての全てを考えないようにしているが、それは甚だしいかぎりだ。私達は、荘厳なる生命と、理解しがたき死とを調和させて、死を明るいもの、平凡なるもの、親しみ得るものとすべきである。
私は、老境にいる前には、善生涯を送るように努めたが、老境に入ってからは、善い心を以って死を迎えるように希望した。善い心を抱いている者は、喜んでこの世を去って行く。
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