|
|
| 聴 法 録 183 |
聴法録183-1
肉体の死は生涯の終りではない
死は、心身の完全な壊滅であろうか。それとも真実の生命のみの解消であろうか、或は、真実の生命が単に場所を変えるだけに過ぎないのであろうか、若し、死が心身の壊滅でなく、丁度睡眠のようなものであるなら、疑いもなく彼は幸福である。静かな夜の、夢でもなく、うつつでもない。真の眠りを、恐怖や苦悶の多い覚醒時と比べると、何という相違であろうか。この状態が死と名づけられるなら、誰もが、死と感ずるであろう。又、死がある状態から別の状態への異動であり、或は一部の人の言うが如く、私達の先輩である聖賢達が住む所へ私達を導いて行くものであるなら、私はただ一回の死よりも、百回の死を欲くしたい。このように、死は決して恐るべきものではないのだ。そして、私達が、唯一つ考えて置くべきことは、善人の生涯には、現在も死後も、悪のないことである。
死は、人間の意識の停止を意味する。この事実を、私はある人の臨終に立ち会った時に感じたのである。だが、何の理由で意識が停止するのか、又しなくてはならぬのか、それは理解できない。
人間は死を恐怖し、出来得る限り長寿を欲する。然し、死が不幸であるとはいえない。三十才で死ぬのも、百才で死ぬのも死は一つである。死刑囚に三か月後に刑を執行するというも、一か月後というも、何の変りもないと同じだ。この場合、一か月の生命の延長は少しの喜びも与えない。ある人は「死によって万事休す」というが、一体生命とは何か。死の単なる先駆者に過ぎぬではないか
何ものか知らないが、私以外のものが生命を吹き込んだと感じる、吹き込まれたのなら、吹き出す時があろう・‥‥と考えるのは、決して生命の真相を穿ったものではないか。
老衰した人は、一時間前の出来事を忘れてしまう。記憶と言うものは時間的に行はれるものと、「我」である自意識とが融合して初めて完全な姿となる。然し、老いたる人には時間的なものと「我」とが融合しない中に「我」の継続が中断して、次の新しい「我」が始まるから忘却が起こるのである。
「我」の生命を深く信じることによって、死が生命を滅亡させるという妄念が去って行く。
|
|
|