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| 聴 法 録 185 |
聴法録185-1
死に臨んで生じる物質的の変化は人智では解し難い
私達は「死」の現象を、何処か遠い国に旅立つように考える。だが、これは誤った思想である。死に就いては、理解することも、思想することも不可能である。この問題は、「神(真実の生命)は何ものであるか」ということと同じように不可侵のものである。死に関する考えを総合すると、死とは神(真実の生命)が人に与える或るものだと言う事に帰着する。そして神(真実の生命)が私達に与える全てのものは善であるから、死もまた善であらねばならぬ。
死後における真実の生命の運命に就いては、私達は何も知っていない。知ることが出来ないのだ。私達は、自己の生命が、何処から出て、何処に行くのかも知っていない。だが、私達はどこからか出て来たのに相違ない。出てきたところがあるなら落ち着く處もある筈だ。
私達は、出生以前のことは、何も知っていない。死後に就いて何も知らないのは当然であろう。生命が、その死後までも継続するなら、大変に結構だが、私達は、これに関して考える力を持っていないのは、甚だ遺憾である。
人間の生死は、研究し得ない変化の連続である。この変化の第一歩は、人間の出生に始まり、死に終わる。しかも、この現象は、私達の研究園外である。
私達のために、最も重要なことが一つある。それは、神(真実の生命)は私達から何を求めているかを知ることである。この問題の解答は、世の宗教にも含まれているが、私達の良心にも吹き込まれている。そこで、私達の行なうべき重要時は、神(真実の生命)の要求を知ってその遂行に全力を注ぐことである。私達は神(真実の生命)の意志を行なう為に、全力を盡していると、神(真実の生命)はこれを観て、私達に最も必要なものを与えてくれるのである。
「死とは何ものであるか、何人もこれを知らない。」死は大いなる幸福である場合が多いにも拘らず、人はこれを大悪として恐れ嫌う。
人間の生涯の中に愛着することは、あまねく人間の幸福のためであると、私は堅く信じている。だから私達が死に直面して経験する総てのことは、幸福を増進する所為でなくてはならないのだ。
神(真実の生命)が私達人間の内に在り、未来にあると信じていれば、人は傲慢にならないが、これを私達は、日月のように明らかに知ることは出来ない。然し、神(真実の生命)の存在と、人間の「真実の生命」は不死であることを、私は心に感じている。この理由、つまり実際に神(真実の生命)はあり。私達には未来の生命があるという信念は、私達から生命が離脱しないことを意味する。
「私達は死後にどんなことに出逢うでしょう」と問う人があれば「神(真実の生命)の意志が天に於いて行はれるように、地にも行はれん」と答えよう。これは、他の言葉で言えば「この時間的の生涯で行われるようなことを、時間を超越した真実の生命の生涯においても行え給え」という意味である。これは舌の先で言うのではなく、心の奥底から神(真実の生命)に願うのでなければならぬ。愛なる神(真実の生命)は、この願いを必ず聞き入れるに違いないだから、私達は、死後のことなどくよくよ考えるには及ばないのだ。
キリストは、その死に臨んで「父よ。汝の手に、わが真実の生命を渡さん」と言った誰も、このキリストのように心の底から神(真実の生命)に話しかけるなら、最早何も言う必要はない。死も、真実の生命も肉体から分かれて、その本源に還るものなら、これ以上の幸福はあるまい。
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