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| 聴 法 録 186 |
聴法録186-1
死は解放である
死は、私達の真実の生命を包む肉体の破壊である。肉体と真実の生命とを混合してはならぬ。
私達が生まれる時に、真実の生命が身体と称するもの、肉に包まれるのである。肉体は年を重ねるに随って壊れやすくなり、終には全く壊滅してしまう。そして、肉と真実の生命とを合致させたものの意志によって、解放され全く自由なものとなる。
蝋燭に点火すると、蝋は融解する。このように、真実の生命の生涯によって肉の生涯が融解し、消滅する。肉体の真実の生命が焔に焼かれ、全く焼き尽くされてしまうと、死がやってくる。死が肉体を破壊するのは、恰も建築師が完成した建造物の足場を取り除くようなものである。建造物とは勿論、真実の生命の生涯のことで、足場とは肉体のことである。精神的な建造物を完成した者は、その死に際して、即ち肉体の生涯にあるものを取り除ける時が来たと、心から喜ぶのである。
私達は、生から死までを、その生涯とするから、死によって生命が終わるのだと考える。生涯をこう考えるのは、池は甚へられた水ではなくその周囲の土手だというのと同じである。若し、池から水が流れ出してしまったら、池も水も滅亡してしまったと考えるに似ている。
万物は成長する。花が咲き、実がなり、やがて地に落ちて土に還るというのは、天地自然の理に協というのは、永遠に融合することである。従って、肉体の破壊は何等の危険を帯びていないのである。
死の直前、即ち真実の生命が肉体を捨てる瞬間に、私達の肉体はその活動性から離れて、物質と合致する。物質界に於いて、ある意味で別個のものであった私の身は、この瞬間から物質と同じものになってしまうのである。真実の生命はこの時から他の有限的な生命に移っていくのか、或は真実の生命に生命を与えた、時間と空間を超起する本源と合一するのか、私達は一向に知らない。又、知ることも出来ぬ。
私達は、欲望の征服に努力していたが、常に肉体に妨げられた。だから、この肉体から解放されたら、どんなに嬉しいだろう。
死は肉体からの解放であるから、私達は真実の生命が肉体から遠ざかるように努め、真実の生命の私に導き入れよ。人間が、その全力を、肉の桎梏から脱出することに注いだら、必ずその生涯の目的が達成できるであろう。そして、これに満足を与えるのは、この世の道理である。だから、人間が永別を悲しむのは、むしろ奇怪なことだと言ってよい。私は、死を生涯かけて探し求めていたものの実現だとして心から歓迎する。
真実の生命の不死を信じないのは、生命を真面目に考えないからである。人間が単なる肉の実在のみであるなら、死は真に無価値なものの終局に過ぎぬ。だから、死を悲しむことは少しもない。人間は精神的の実在であって、真実の生命は一時的に肉体に入っているのであるから、死は唯一つの変化なのである。
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