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| 聴 法 録 189 |
聴法録189-1
死は真実の生命を解放する
死は、偏った個性から、人間を解放する一つの転機である。だから、多くの死者の顔には、平和と安静の表情が現れているのだ。善人の死は、平静であり容易である。然し、喜び勇んで死に逝くのは、個性生命の否定である。こういう人は、未来の存在を必要とせず、又、これを要求しない訳である。
人間の肉体に包含されているところうの、「あらゆるもの」の意識は、自己の願分を拡大する為に、絶えず前進している。この前進こそは、人間生涯の半ばを為すものである。残りの半分が次第に強力になると、他人を愛し、物に執着するようになる。
つまり「自己」という狭い桎梏をはねのけて、意識を他の方向に振り向けることである。然し、人間は、この愛や執着がいかに強烈であっても、到底「自己」という領域から脱出することは不可能であって、死だけが、この境界を突破して自由を与えるのである。だから、決して死を恐れることはない。この状態を他の者に擬するなら、毛虫が蝶になるようなものである。この世に於ける私達は、この毛虫であり、さなぎとなって自由な蝶に化するのは、死して他の生涯に移ることだ。
私達の肉体は、神(真実の生命)によって与えられた真実の生命の容器である。この外形が破壊されると、中にあるものに影響を与えて、それが変化する。この時、私達の真実の生命は、他の物と混合してしまい、周囲の変化にふさはしい形をうけるであろうか
私達は、これに就いて全く何も知らされていないのである。知っているのは、形があるものに就いてのみである。真実の生命が、どんな形をうけ、どんな運命を辿るかそれはこの世では、予知できないものである。
唯一つ「「現在」と名づくるもののみが不死である。「不死」に付随している個性は、常に不死の真実の生命と共に存在している。だが、私は、この個性の存在が、何よりも厭しい。だから、私は、この個性から脱するために、絶えず全力を盡しているのだ。
生命は夢幻であり、死が、覚醒であるなら、私は夢幻から、死によって甦ることを欲しょう。
この世から見て、自分が別個の存在である場合は、邪魔者扱いにされて、恐怖と無常を感ずる。この感情は、獄舎から解放されたものの心と同じである。
だから、人との交際にまま愛のひらめきを認める時などは、喜んで死を迎える気持ちになる。この世の鳥籠にはもうあきた、外の籠でもっと真実の生命にふさわしいこの世との関係がほしい。死だけが、この不満を消滅させることを、私は知っているが、この外には私を満足させるものは何もないのだろうか。
足の下には永結した堅い大地、周囲には大きな樹木、頭の上には曇った空、そして自分の心はある種の感情で一極だ。この感情は、偶然のもので、五感によって発生したものである。だから、これは、人間が作ったもので、この世界の一部分ではなく、人間の死によって消滅するものである。若し消えぬ場合があったとしても、小さな森や小石から、宮殿や高塔が作られるような素晴らしい変化を起こして、この宇宙から分離されてしまうのである。宇宙は、そこに住むもののために、その要求に応じて相応な働きを示すであろうが、私達人間のためには、全く別個のものとなってしまう。私達が「宇宙」から分かれたのは、他のものと同じであろうが、その方法に就いては、多種多様である。
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