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             聴  法  録  196

聴法録196-1
真の幸福とは何か
真に幸福なるものは少ない。真の幸福は、全人類が善なるものとならねばならぬ。だから、私達は客観的に幸福の該当者であることを欲すべきである。自己の行為全部をこの目標に向けて、進める者はやがて、この幸福を得るであろう。

その地位によっては、善悪を混じた状態も少なくないが、その傾向によっては、この混合はない。若し、この傾向に悪があるとすれば、それは、自己の動物的な意志が発動したのである。善なる傾向がその行為に見えるなら、それは神の意志の頸現と見做してよい。前者は不幸であり、後者は幸福そのものである。真の善は何処にもない。それは唯内在する真実の生命の生涯にあるだけで、肉の生涯には勿論、含まれていない。真の善は、これを自己のうちに求めるべきで、自己以外に見出すことは不可能である。

善行は、単なる行為の一つに過ぎないが、この行為は、人間の高尚なる利益をもたらすものである。

人は、援助を神に求めるが、神は願ったからとて、みだりに援けを与えはしない。人間の援助となるものは、ただ自己の善生活あるのみだ。そして、この善生涯は、人自らが培うものであって、他によるべきではない。

善行に対して、直ちに神から褒賞が与えられはしない。この褒賞は真実の生命のものでも、善行の瞬間に与えられる直覚的のものでも、この褒賞は、何時、何処で与えられるのであろうか。若し、善行に褒賞がなかったら、善を行なう者が少なくなりはしないか。善行に対する褒賞はある。だが、真の褒賞は、具体的のものでも、来世のものでもなく、善を行なって内在する真実の生命が感ずる自覚的のものであるこの中には、褒賞も奬励も含んでいる


ある聖者は、神に次のように祈りを捧げた。「神様、悪人に仁慈を与えたまへ。善人には既に仁慈を授けられ、その善なる生涯によって幸福を得ているから、この上は、悪人に仁慈を垂れたまへ」と