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| 聴 法 録 198 |
聴法録198-1
肉体の為に行うことが多ければそれだけ幸福が減る
不幸なる者よ。汝は幸福を追って何処までも走るつもりなのか、幸福は最も近いところ、即ち汝の心中にある。遠いところや不幸の入り口にこれを探す必要はない。若し、汝の心中に幸福がないなら、幸福は何処にもないのだ。由来幸福は汝の心が愛に共鳴する所にある。その愛は又、自己の生命を考えず、他人の生命のために尽くすことによって活きる。幸福を、自己の心中に求めずして、他に求めるのは内在する真実のいのちの所在を知らぬからだ。これは丁度遠いところに濁水を求めて、近いところの清水を忘れているのと同じことである。
汝、若し、真の幸福を欲するならこれを遠方に求めず、富貴のうちに探さず、他人に願わず、又彼等のとの競争のうちに求めるな。この方法によれば、爵位や地位のような無用のものは得られるが、私達に必要な幸福は得られない。真の幸福は祈りも代金も必要としない。富貴や爵位は、欲しても与えられないが、又、無いからとて、不幸ではない。然し、汝に必要な幸福は、汝の心次第でいつでも如何なる場合でも、自ら進んでもらうことが出来る。幸福は又、天とも地とも関係なく、唯だ汝自身との関係を持つのみである。
そして、この幸福は、この世に唯一つあるのみだ。では、この幸福とは、一体何物なのか。それは愛の生涯であって、誰でも容易に獲得できるものである。
人生に必要なものは得易く、得難いものは必要がないように、この世を造った神に私達は感謝を捧げる。そして、人生に必要なものは、真の幸福であり、この幸福を得ることは、その心次第で何を得るよりも容易である。「神の国は汝の心中に在り」という・‥‥若し、私達の心が愛に燃えているなら、幸福は、ここに宿るのだ。幸福が場所や時間や、財産や健康、腕力などによって得られるものであったら、どうであろう。また幸福が唯一つのエレサレムとか、アメリカとかにあるものならどうであろう。また幸福が、ソロモン王のみが得たり、位階を持つもの、或は荒野に苦行を積むもの、学門に勉しむもの、容貌の美しいものの専有すべきものであったら、、一体、この人生はどうなるであろう。如何に幸福を欲するからとて、人類全体が一つのアメリカ、或はエレサルム とかに、同時に移住することは不可能であろう。又、幸福が富や健康や、美しい者のみに限られていたら、貧しい人や老いたる人、病人や、醜い人たちはどんなに不幸であろう。若し、これが真実であったら、神は、幸福を奪うものだと言ってよい。だが然し、この世の状態は、まるで違っている。神は、得難いものを、幸福のためには、不必要であるとしている。だから、富貴に幸福なく、美貌に幸福はない。真の幸福は、誰でも愛と善行とによって得られるのである。
人が神に願うことの大部分は、神が聞き入れないことであろる。神が人々に援けを与えるのは、彼らが自己の力を以って成就出来ぬものばかりである。だが、彼等はその勝手な願望が達せられぬと言っては、神に怨みを抱く、これは甚しい迷妄である。
「私に幸福を与えよ」と人は個々に神に祈る。丁度泉のほとりに坐して、「咽喉が渇いたから水を飲ましてくれ」と願っているようなものだ。神はこの時宣言する。「汝よ願うには及ばぬではないか。飲みたければ。かがんで飲んだがよい」と。幸福は、私達が、進んで授受するように、準備されている。他をたのむことはないのだ
持つ権利の無いものを所有することが、幸福だと考えるのは、不幸になる原因をつくるようなものだ。何故なら、そのために、自己の権利によって得た幸福をおろそかにするからだ。
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