|
|
| 聴 法 録 20 |
聴法録20-1
何人というも大いなる「いのち」を心内にもつものは、単純に且つ唯一に、大いなる「いのち」を万物の中にもつ。かかる人は、あらゆるその労作、あらゆる場所に大いなる「いのち」を伴ない、大いなる「いのち」のみが彼の労作の全部を行なう。
彼は大いなる「いのち」のほか、何をも求めない。
大いなる「いのち」以外の何物も、彼には善と見えない。彼は全ての想念に於いて、大いなる「いのち」と合一する。如何なる「多」も大いなる「いのち」を分散せしめ得ぬと同じく、何物もかかる人を分散させ或いは「多」とすることは出来ない。
|
聴法録20-2
人の一生は、その人が領解した教えの深さによって決定します。
わたくし一人が聴く。わたくし一人が求め、わたくし一人が歩み、わたくし一人が、照らされて、照らしきられて生きる道。
南無阿弥陀仏は如来の生命であるとともに、煩悩に燃えあがる人間のいのちである。
宿命を転じて使命に生きることを自由という、これを横超という。
人の一生は、命の捨て場所の見つかるまでのもがきです。
小人は、小人にほめられる事をのみ求め、偉人聖者は、自己の喪心の声に忠実である。
誰にでも誤解する事がある。しかし誤解の方向が方向がその人を決定する。
高慢は、凡夫の持つ不治の病である。百千の善根功徳も一つの高慢によって滅ぶ
如来は必ず現在に対する目を開く。
一切生命は如来に帰し、一切の命は如来より出る。
生命の充実とは、如来の大信に生きることである。
我如来に生きるにあらずして、如来、我にあって生きたもうのであります。
飽くことなき真理への思慕、それは合掌の旅であります。
よく生死の苦悩を超えようとすれば、苦しみに随順せねばなりません。よく生死に随順する者のみが、生死を超えるのであります。
生死に随順する者のみ、よく生死を超えて、如来の本質を衆生と共に生きる。
私は鬼じゃ。この鬼を受け取って下さるのは、親さまだけだと、本当にわかった人は世界一の智慧者である。 |
|
|