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| 聴 法 録 207 |
聴法録207-1
善は内在する真実のいのちと肉との清涼剤である
孔子は次のように教えた。高徳の人は、徳の行者としての自分を認めないから、真に徳行の高い人である。徳の低い人は、その徳行を忘れないでいるから、高徳の人とはなれない。徳の高い人は、その徳行を殊更に価値づけぬから、常に控え目である。徳の低い人は、その行為を誇示するから、それは徳行でない。真に徳を行なう人は、自己の行為を他人に認めさせようとはしない。然し、善に乏しい人は、その行為を他人に認めさせようと骨を折る。正義の行為は外に現れないが、正義を疎んじる人の行為は、外観だけは正義らしく見える。人格者は、自己の正しい行為を他人に認めさせようとしない。非人格者は、自己を他人に認めさせるためには、万事に抜け目なく、時によっては腕力さえも使用する。社会に徳行が廃れると、善人が現れる。善が廃れると正義が現れ、正義が廃れると体面をつくろう人が現れる。体面を繕うことは、正義に似ているが、これこそ、秩序錯乱の素因をつくる。智は真理の花であると共に無智の入り口でもある。その故に、聖者は結果を見て智の真価を定め、その花には重きを置かないのである。
徳の高い人は、常に正しい真直な道を歩み、途中で弱ってしまうことを非常に恐れる。
人間の他は、宝石に似ている。宝石は如何に取り扱われてもその礼節を失うことはない。
道に叶う人の心中の平和は、その善行に対して与えられる褒賞である。隠された徳行が世に現れた時、その光は益々輝く。
他人の幸福を増してやるだけ、自分の幸福も増してゆく。
私達が、幸福を得て互いに助け合いながら生涯を送ることは神の意志であるが、不幸にあって苦痛に喘ぎながら死に臨むのは、神の意志ではない。喜びながら生涯を送るものは、他人への援助も十分にできるが悲しんでいては、他人を助けることは不可能だ。
太陽の光線を浴びることは、植物にとって幸福である。だから、隔てるもののない樹木は、思う存分に伸び茂り、これ以上よい境遇があろうとは考えない。利己心を持たない人は、自分の得た利益を人に与えるために苦心する。自己を犠牲にする愛以上の愛はない。他人のために時間を割き腕力を使い、肉体を提供し、更に生命さえ投げ出す愛がある。この愛こそは真実である。こういう愛の所有者こそ、真の幸福者であり、愛に対する報奨を得られる。この世は、この愛によってのみ維持され、発展する。
善行の習慣ほど、人の生涯を飾るものはない。
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