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             聴  法  録  209

聴法録209-1
何ものにも伴侶がある。

肉の行動にも、善の閃きを認めることがある。これは遺伝に依ることもあり、肉体の健康によることもあり、仕事の好調によることもある。だが、その原因はどうであろうともこの閃きを体験するのは愉快である。善の閃きは、あるものを呼び起こすが、これには快味が少ないようだ。然し、この快味は、何ものに出逢っても消滅せず、むしろ進展の傾向がある。そして、前の善の閃きは、一時勢いを失ったり、反対の色彩を帯びたりするが、再び起こってくるものだ。

善を行なう半面に、敵対行動を続ける人がある。彼等は良心の制裁を受けたり、他人に大いなる不満を感じさせることがある。この兆候を認めた場合は、直ちに行動を停止させるがよい。この現象は、善を行なう力がない証拠である。何等の不都合なく実行できる使法を見出したら、その苦痛の原因を除くように努めよ。

外部が現れる所だけ善い人がある。私達は、こういう人でも尊敬せねばならぬ。この種の人でも善の仮面をかぶった悪人よりは、徳義的に優れているからである。だが、若し、自分が外観だけの善を行なっていることに気がついたら、躊躇なく、これをさけよ。

善行は、喜びをもたらすが、完全な満足を与えない。私達は、善行に善行を重ねて満足を得るまで突き進まねばならぬ。

善は、如何に多く積んでも、尚不足を感じるものだ。

人間の行為を詳細に調査すると、天性の傾向は悪でなく、善であることが解る。

聖者は頑な心を持っていない。彼は自分の心を、大衆の心に合致するように努める。善人は善人として過ごし、悪人は善に付くように意を用いる。

怜悧であり至善であるだけ、その人は他人の善行に頭を下げる。

汝の奉仕生活を完全ならしめるために、人間は勿論、他の生物に対しても悪を行はず、苦痛を与えないように努めよ。


真実の生命の根底は善である。若し、人の性が悪であったなら、虚為や欲望や、誘惑や殺生を絶対に好むであろう。