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| 聴 法 録 213 |
聴法録213-1
大事
難行門の代表とみえる道元禅師の説諭にも、易行門と称される浄土教の説諭にも、共通一貫して覚りにいたるには、下根劣機であることは支障にならないと断言された。”ただ信心を要としるべし”と嘆異抄にあり、別にして言うなら”菩堤を求める心”が無上の只中にある我等衆生に於いて仏道共通の要諦であること。とりわけ弥陀の大悲本願としての大悲の頸現に於いて仏の方より南無阿弥陀仏として完成されてあることが、以下にねんごろに展開されてある。
「正法眼蔵隋聞記」に胸にしみる一節がある。その要を抄訳してみると次のようである。あるとき、仏道を学んでいる人が来たって道元禅師に問うた。自分は永い間仏道に専念していますが、いまだ悟りに達することが出来ません。悟るには聡明であることを要しないと聞いておりますが、しかし用心しなければならぬ点があるなら、どうか聞かせていただきたい。」これに対して道元禅師は示して次のように言われている。「あなたの言われている通り、悟るには智慧も学問もいらない。しかしわざと痴人になれというのも嘆かわしいはからいである。
仏道には、有智高才を要しないから、下根劣機であることをいささかも心配する必要はない。真実の仏道というものは到って易いものである。ではあるが、自分が学んだ大栄国の実際に照らしてみても、一人の師匠の門下数百何千人の中で真に得道の人はわずか一人二人に過ぎない。そこには何か心掛けねばならぬ大切な問題が潜むと言わねばならぬ。今これに就いて考えるに、要は志の問題であると思われる。換言すると仏道に切なる欣求の心を持つということである。
たとえば、強い敵に打ち勝とうと思い、また美人に憧れるものが、寝ても覚めてもそのことを思い詰めるように、絶え間なく心にかけ続けていると、きっと思いを遂げることができる。道を求める志が痛切であれば、必ず必ずその志の前に一筋の道が開かれるであろう。これくらいの心を起こさないで、無始以来の生死の輪廻をこのたび絶とうとする大事をどうして成就することができようか。この心さえあれば、下智劣根であろうと、愚痴悪人であろうと、必ず悟りを得べきである。さて、こうした仏道への志は、この世の無常を思う心と表裏するものである。その無常を思うとは、無常観を修することでもなく、また、わざと無常を思うことでもない。
無常は真に眼前の事実であって聖教の文を待つまでもない。朝に生まれ夕に死し、昨日見た人の今日はなき世界である。この事を自分の身に引き当てて思うことである。我々は生きている間、憂え悲しみや怨愛で大騒ぎするのであるが、無常ということを正しく見極めて見れば、たとえどうあろうともそのまま過ごしてゆけるはずである。高齢の人、人生の半ばを過ぎた人は今後何年生きるつもりであろう。まことに当てにならないこの世にあって、さまざまと生活の利害に没頭し、その上さらに人に対して悪事を企んで、無駄な時を過ごすのはまことに愚かな事である。くれぐれもこの道理を忘れないで、ただこの日一日、今あるいのちと思い、仏道を学ぶ覚悟さえできれば、その後の事は何事もいと易く、性の上下、根の利鈍ということは全く問題にならないのである。」
以上の如く語られる道元禅師の言葉は、不思議にも「大無量寿経」の教えを聴く思いがする。「聖道の難行」といわれるが、ここにはそうした言葉も心も全く見出されない。道元禅師は繰り返して真実の仏道というものは、易いものであると述べられている。盤珪禅師の語録にも、そうした言葉がたびたび現れる。それは仏道の真実がわが手で捉えるものではなく、与えられてあるものだからであろう。ただそこに、そのおうけなき賜物を隔っているものがある。我々にとって問題は、それを如何にして超えるかということであろう。そのために智慧や明敏さは必要なのではないと言われる。「唯信抄文意」に親鸞聖人が、「下智は智慧あさくせばくすくなきものなり、高才は才覚ひろきもの、これ等をえらばずとなり」といわれているこころに一致する。では問題は何処にあるというべきか。
今それをまさしく仏道への「志し」と示されている。「大無量寿経」に依って親鸞聖人が「たとえ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきく人は、ながく不退にかなうなり」と和讃に誦されたのは、まさしくこの「志し」の問題を取り上げられたのであろう。しかしそれは決して、強いて発起せねばならぬような志ではない。「大経」下巻に諄々と説き示されたこの世のはかなさと我が心のさ迷い、それを思う時湧きおこらずにはおれぬ止むにやまれぬ志なのである。けだしそれは、人間にとって必然の願いというほかはない。人間が人間の願いに生きるほど自然なことはない。ただ我々は当てにならぬこの人生で、よしなき利害の願いに翻弄され、真実の願いを忘れていることが多い。実ならぬものを満たしても、それは夢の如くうたかたの如く、まことの生きがいに達することは出来ぬ。そこに人生のそこはかなき寂しさが宿るのである。
我々は先ず真実の願いに立ち返らねばならない。その根本の願いを忘れ、ただ安易を欲くして易行を求める所に脱線が起こる。本願他力に対する非難の源はここに潜むと言ってよい。仏道は一筋である。道元禅師の胸にも親鸞聖人の心にも一筋の道が通っている。その一筋の道が一切の抽象性を離れ、最も具体的に完成の光を放って顕現しているもの、それが大悲本願の一道である。
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