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| 聴 法 録 214 |
聴法録214-1
宗教とは、有限と無限、相対と絶対という如き、過程的関係において成立するものではない。我々の自己自身の存在が根源的に問われてくる時に、初めて問題となるのであるとする。そして、「もし対象的に仏を見るという如きならば、仏法は魔法である」神とか仏とかいうものを対象的にどこまでも達することの出来ない理想地に於いて、これによって自己が否定的肯定的に努力するというのでは、典型的な自力である。
それは宗教と云うものではない。そこには全然親鸞聖人の横超と云うものはない。最も非真宗的である。また「神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によって有るものであるのであり、絶対無なるが故に絶対有であるのであるといっている。
その意味において、真の絶対とは、「絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神というものを論理的に表現する時、斯く云う外はない」のである。かくして、「神は何処までも自己否定的にこの世界に於いてあるのである。この意味に於いて、あるのである。この意味に於いて、神は何処までも内在的である。故に神は、この世界に於いて、何処にもないと共に何処にもあらざる所なしと云うことが出来る」のであり、南無阿弥陀仏とは、「何処までも超越的」であってこそ、まことの南無阿弥陀仏といいうるとするのである。
そして超越というものは、「単に人間に神として、人間ーーー神関係うちだけで捉えられるべき超越者ではなく、世界というものとの関係でも、私ーーー汝と同様に、世界対世界として考えられねばならない」「真の超越は世界に対する超越という意味をまた必ず含んでいる。私の考えている超越というのは、どこまでも宗教的実存(私)に対して超越的である(汝)面と共に、また世界に対しても超越であるもの(彼岸)である」といっている。
すなわち、超越とは、主体に対する超越と共に、世界に対する超越という意味を持っているというのである。そして「神とか仏とかいう事の意味も、人間がこのような人間としてこの世界に於いてある限り、世界超越は常にある意味で西方浄土的でなければならない」といっている。そしてまた、その世界超越について、「超越しつつ彼岸的世界から―――すなわち超越的世界から―――現在的世界へというかたちで、将来から現在してくる将来するものである。われわれに対して超越的に将来するものとして現在してくる者が、真の超越であると私は考える」といっている。
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