|
|
| 聴 法 録 215 |
聴法録215-1
南無阿弥陀仏とは、我々にとって、たんに二元論的、対象的に、自己の外に向かって思惟されるべきものではなかろう。ひとえに実在的に自己のうちに向かって訪ねてゆき、絶対的自己否定的に、自己が自己の根源に徹底、沈潜するという方向に於いてこそ、よく出会いうるものであるということを忘れてはなるまい。
釈尊がその教説に於いて常に指示したもの、仏教における究極的な目標は、われわれが、このような智慧、真実を獲得してゆくという事であったのである。かくして、仏教が目指す所の智慧―――般若、正覚とは、この迷妄の世俗を超えてはるかな彼岸、出世なるものでありながら、しかもまだ、それはこの現実の世俗を離れて得られるものでなく、つねに此岸のただ中に到来するものである
すなわち、それは超越にして内在、内在にして超越なるものなのである。
曇鸞によれば、真実の智慧を確証した諸仏、菩薩の法身については、法性法身と方便法身の二種の法身があるというのである。その法性法身とは、真如法身、般若、智慧を表象したものであり、方便法身とは、その般若、智慧のこの世俗への方便到来する態を表象したものであって、方便、慈悲の働きをいう訳である。そしてその両者は、由生由出、不一不異の関係にあって、法性法身によればこそ慈悲なる方便法身が生起し、方便法身あればこそ智慧なる法性法身がよく願出しうるのである。
そしてその故に、両者は不一として、相互に独立して存在するものでありながら、しかもまた、両者は不具にして、相好に他なくして存在し得ず、その法性法身と方便法身、広と略とは、よく相入するというのである。
親鸞はこの曇鸞の二種法身の説を受けて、その「唯信鈔文意」に
「しかれば仏について二種の法身まします。ひとつには法性法身ともうす、ふたつには方便法身ともうす。法性法身ともうすは、いろもなし、かたちもましまさず、しかればこころもおよばず、ことばもたえたり。この一如より形を現して方便法身ともうす。この如来すなわち誓願の素因にむくいたまいて報身如来ともうすなり、すなわち阿弥陀如来ともうすなり」と明かしている。
智慧なる法性法身とは、色もなく、形もましまさず、心もおよばず、言葉も絶えたる、究極的な出世の境界を意味し、その法性法身より、この世俗に向かって到来し、至現した方便法身こそが、阿弥陀仏であるというのである。
すなわち、阿弥陀仏とは、もと不加称、不可説なる出世の智慧、真如、法性が、それ自身の必然として、それと不一不異、広略相入なる関係を保ちつつこの世俗に対して、方便、到来し、示形、垂名したものであるというものである。
|
|
|