本文へジャンプ
             聴  法  録  216

聴法録216-1

阿弥陀仏について説いた「無量寿経」の中心教説は「本願」であり、その本質は「名号」である。親鸞がその「無量寿経」を解するについて、「如来の本願を説いて経の宗教と為す、即ち仏の名号を以って経の体とするなり」という如くである。それは直訳的には宿世の誓願のことであって、遠い過去世からの志願、宿願という事を意味している。すなわち、無始以来、初めなしその初めから、今日に到るまで絶えることなくして続いている志願である。まさしく無始以来の宿世の本願である。

この本願とは、仏の心を現したものに他ならないが、仏の心とは「大慈悲これなり」と説かれている。慈悲とは、慈とは、それはもと友人、仲間を意味する話から生まれたものであって、いかなる障害をも越えて繋がる深い友情、連帯のことである。悲とは、隣愍、同情を意味し、他者の苦悩をわが苦悩として共感するところの、同体の心情のことである。


かくして仏の心としての慈悲は、いっさい有情の苦悩を自己の内に同体的に共感しつつ、しかもまだ、その有情との自他一如なる生命の連帯を自覚する心のことであって、それはすなわち、上に見たところの、般若、智慧の世俗に対する方便、到来の態、その働きを具体的に表象したものにほかならないわけである。

ことにその悲の原語である。その原意は「呻き」であるともいわれている、仏心は常に大きな苦悩に耐えつつ呻いているというのである。とすれば、仏は何故に苦悩し呻吟しているのか。

極楽浄土の主である阿弥陀仏自身には、一片だに苦悩の原因が存在するはずがなかろう。にもかかわらず、阿弥陀仏が呻いていると言われるのは如何なる理由よるものか。それは仏心が、つねに智慧にもとずくものであるからである。智慧とは、すでに上に見た如くに、主観と客観が相即し、自他一如の関係に於いて成立する智の営為である。したがって、そういう智慧を基盤とする仏心とは、その必然としてつねに他者を同体として意識し、それに対する不可分なる連帯を自覚するが、その仏に対する私が、どこまでも仏に背反して無明煩悩の存在であり、地獄一定の業道を生きている限り、両者は決定的に矛盾し、対立することとなる。

真実と虚妄、涅槃と生死の矛盾、葛藤である。しかもその矛盾、葛藤とは、真実、涅槃のただ中における出来事である。それはあたかも、大いなる慈愛に包まれていながら、なおもそれに反抗する如きものであろうか。ここに仏の呻きが生起してくる理由がある。仏はこの地獄一定の私を包んで、永遠の昔から、その矛盾、葛藤に苦悩し、呻吟しつづけているのである。