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| 聴 法 録 218 |
聴法録218-1
宗教と云うのは、世界にさまざまな宗教があり、日本にもたくさんの宗教があるわけです。しかし、それを大きく分けるとこういう事が言えると思うのです。一つは、力(パワー)を教える宗教、そして、もう一つは、道(人間の生き方)を教える宗教というものがあると思うのです。大変、大ざっぱな分け方ですが、現実の宗教はその二つが重なり合っていますから、簡単に、どの宗教がどうだと言えませんけれども、非常にハッキリ言いますと、本来の仏教というのは道を教えたのであって、力、パワーを教えた訳じゃないんです。パワーを教えるのが非常にハッキリするのは日本の神道です。神道も道(みち)という字を付けますけれども、ご存知のようにこれはパワーを語ります。風に神とか、雨の神とか、智慧の神とか、縁結びの神とか、さまざまなよろずの神が語られて、その神々は、皆それぞれ専門の力、パワーをもっていて、それに人間がお祈りし、お願いすれば、その効果があるという訳です。こういういわゆる現世(げんせ)利益(りやく)といわれる宗教、今の日本の神道というのは、そのことが非常にハッキリしています。だから、ここでは宗教が沢山重なってもいいわけです。
力、パワーは多い方がいい訳ですから、だから、日本人が、元旦に初詣にいろんな所うへ詣でるという。これは外国の宗教学者が驚いて、「日本の宗教はおかしい」と言いますが、日本人は、そういう神道を基本にして宗教を考えますから、そして重なれば重なるほど、少ないより多い方がいいという、パワーの論理がありますから、初詣がにぎあう訳です。ところが、キリスト教あたり、或は、日本でも、新しい宗教の中には、他の宗教をキチットと排除するという。そういう考え方があります。これはパワーでなくて道を教えているから、そうなるのです。道を学んで歩むとなれば、あの道も、この道もという訳にはいきません。
仏教も、お釈迦様の教えの原点に立つ限り、道を教えたのです。仏教が日本に伝来して人々に信奉されている中で、神仏習合という、神様と仏様を重ねて考えるという。重層信仰が生まれてきて、道の教えが力の教えに近づいて、だんだん曖昧になったんです。それが奈良時代から平安時代の仏教です。
しかし、鎌倉仏教というのは、それを非常にハッキリと本来の仏教、道の教えに帰したわけです。法然は専修と言ったわけです。もっぱら修めるということです。親鸞は唯信といいました。専とかというのは、一つの道を選んだという事です。そういう形で明らかになるのが道なのです。
救われるという事は、足腰を強くして、悲しみも苦しみも越えていくことです。こういうことが、仏に救われたものの姿だと申したのは、このような道を学ぶ方向の中でこそそういう境地が開けてくる。仏教では、そういうように道を学ぶ方向の中でこそ、そういう境地が開けてくる。仏教では、そういうように道を学ぶことによって、人間的な成長を遂げること、或いは、もっと新しい表現で言えば、本当の自分自身を育てる、人格主体を確立することを目指すわけです。すなわち、今までの自分の古い殻を脱ぎながら、本当の自分に育っていくという、こういう方向の中に人間成長を遂げていくことを教えるものが仏教です。
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