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| 聴 法 録 219 |
聴法録219-2
「若し生まれずば正覚を取らず」
若しも衆生が浄土に往生できなかったら、仏は仏にはならない、私の往生と仏の正覚とは同時一体である。という誓願である。この事は何を意味するものか。それは仏が絶対者としてすでに存在していて、その仏が一切の衆生に向かって到来し、救済するという事でない。仏と私はそういう二元論的関係の存在ではない。
仏は私に於いて、その信知の体験、往生の成就に於いて、現生し、私が仏を信知するとは、まさしくこの私自身が、そういう仏に於いて、存在していることに目覚めてゆくことにほかならないのである。すなわち、仏は、私の往生に於いて仏であり、したがってまた、私とは、仏に於いて、仏に出逢うことに於いてこそ、はじめてまことの私でありうることとなるわけである。
かくして、真実の到来としての阿弥陀仏とは、決してこの私の存在を離れて求められるべきものではない。つねに私の存在に即して、私が私を尋ねて、まことの私自身に出逢うことに於いて、それとひとつになって、超越の仏に出合いうることとなるのである。
名号とは、「名」とは、その字源を検すると、よく見ることが出来ないものの為に、自らが口を開いて自己の存在を告げることを意味し、「号」とは、その字源を検すると、大声で叫ぶことを象徴するものであると言われている。すなわち、名号とは、煩悩に眼をさえぎられてみることが出来ないものの為に、自らの口を開き、大きな叫び声を以って、自己の存在を告知するものという意味を持っているのである。すなわち、名号とは、真実が私たち虚妄の世界に向かって、自己開示したもの、自らを告名したものといいうるのである。
阿弥陀仏という名号は、経典によってそう名づけられ、命名されたものであった。しかしながら、またすでに種々に見てきた如くに、それは世俗を超えた究極的な真実としての般若、智慧が、それ自身の必然として、方便、到来し、自ら告名し、至言したものにほかならないものでもある。すなわち、阿弥陀仏なる仏名は、この虚妄の世界から、かの真実に向かって、そう命名したものであると同時に、またかの真実の世界から、この虚妄に向かって、そう告名したものなのである。
まさに「本願召還の」にほかならないのである。命名にして告名、告名にして命名、此岸から彼岸への名付けであり、彼岸から此岸への名乗りなのである。
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