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| 聴 法 録 22 |
聴法録22-1
我が内なる内的光明に照らされて、煩悩具足の我と知らされる。知らされることが、多くなればなるほど、照らされる光が強くなっていく、そしてますます、その光の中に包まれていく、これこそ大いなる「いのち」との一体ではなかろうか?
内的光明に照らされて、罪の種子、煩悩具足の凡夫、罪悪深重の我と知らされることが大事である。それを無くすることは出来ない。なぜならば、それは、私の本性、本質であるからだ。それを無くすることが出来ると思うのは思い上がりである。闇は、闇自身を知ることが出来ない。内的光明に照らされて、初めて、闇が闇と知らされる。眼が、眼自身を見ることが出来ないように、鏡によって、鏡を向けられることによって、初めて自身の眼を見ることが出来る。それには真実の法を求めなければならない。扉を叩かなければならない。
「求めよ。さらば開かれん」である。求めなければなんともならない。 大いなる「いのち」は、私のために内在したもう。早く気が付いてくれよと、呼んでいてくれる。
大いなる「いのち」の中に生きていながら、それを無視して、自分が生きていると思い。自己肯定、自分中心の考え、自己保身である。そのために自分が一番可愛い、自分が一番大事である。このことが大いなる「いのち」の無視であり、自分自身の苦悩を生む。自分の思う通りになると思っているが、実際には自分の器にこもっている。
大いなる「いのち」に目覚めるためには、自分中心が正しいかどうかが問われなければならない。それが間違っていると気付くことが大事である。それによって、大いなる「いのち」に目覚めていくことである。その目覚めるためには、自分自身では出来ない。大いなる「いのち」に照らされることによって、初めて自分の殻にこもっていることを知らされる。これは自分自身の中に内在する。大いなる「いのち」に照らされてこそ知らされる。自分自身を深く知らされることは、そこに大いなる「いのち」が
内在することの証明である。 |
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