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             聴  法  録  220

聴法録220-3

宗教的な象徴とは、その表象に於いて、肯定と否定の矛盾的構造を持っているのである。そしてまた象徴とは、象徴表現それ自身を超えて、究極的な真実、実在そのものを指示するものである。すなわち、象徴は、象徴それ自身が直ちに、究極的な真実実在それ自身ではなく、それはかかる究極的な真実、実在を指示するものである。しかしながら、また象徴とは、基本的には、決して代替えできるものではなく、常にその究極的な真実、実在そのものに深く関与しているのであって、それは究極的な実在そのものが、その象徴それ自身に於いて自己開示したという意味をも含んでいるものものなのである。

すなわち、親鸞がその「教行信証」に
「人心を以って我を示教するに、指を看視して月を見ざるがごとし。
人語りて言わん、我指を以って月を指し汝にこれを知らしむるに、汝何ぞ指を見て月を見ざると。
これまた是の如し。
語は義の指と為す、語は義に非ざるなり。
此れを以っての故に語に依るべからざる」と明かすものは、よくその意味を示すものであろう。

ここでいう「指月の指」としての「語」を名号として理解するならば、月を指す指(ゆび)としての名号、その象徴語は、どこまでも究極的な真実、実在としての「義」(月)を指示するものであって、真実、実在それ自身では決してない。

まさしく「語は義に非ず」であり、「語に依るべからず」である。

すなわち、すでに見た如く、阿弥陀仏という名号は、此岸から彼岸へ名付け、命名にほかならないのである。しかしながら、またそのことはさらに再考するならば、その月を指す指(ゆび)が、その意味を保持しうるのは、ひとえに月の光沢を受ければこそである。指(ゆび)によって月が指示されるがその指はまた月の光沢に於いてこそ指月の指(ゆび)たりうるのである。

その意味に於いては、指月の指としての名号は、月に対する命名語として、究極的な真実を指示するものでありながらも、それはまた同時に、究極的な真実それ自身が、この虚妄に向かって直ちに自己開示し、告名したものともいわねばならないのである。