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| 聴 法 録 221 |
聴法録221-3
阿弥陀仏という名号は、究極的な真実、実在の彼岸から此岸への名乗り、告名にほかならぬものでもあるわけである。かくして、この名号とは、宗教的な象徴的として、究極的な真実、実在を指示するあると共に、また同時に、その究極的な真実、実在それ自身に深く関与するものであって、それは真実自身のこの世俗に対する自己開示そのものにほかならないという意味をも担っているのである。ここに宗教的な象徴と言われるものの基本の意味がある。
私たちが阿弥陀仏に出逢うということは、ひとえに、この本願を学び、この名号を称し、この名号を聴くと言う事に於いてこそ成就するのである。
仏との出遭い
私が阿弥陀仏に出逢う、まことに信心体験を持つということは、ただに経典に説く阿弥陀仏の説話を、対照的に承認するということではない。阿弥陀仏とは、私にとって、たんに対照的、客体的に捉えられるものではない。私の外に、私を離れて、どれほど懸命に阿弥陀仏を求めようとも、そういう方向、そういう二元論的な構造に於いては、決して阿弥陀仏に出逢えるはずはないからである。
阿弥陀仏とは、「去此十方億莉」なる遠い彼岸に現在するものであると共に、またつねに「去此不遠」として、いま、ここを離れて存在するものではないのである。
阿弥陀仏とは、絶えずこの世俗を超えつつも、しかも同時に、この世俗のただ中に、この私に向かって方便、到来し続けているのである。
親鸞が、その「唯信鈔文意」に、「この如来微塵世界にみちみちてまします。すなわち、一切群生海の心にみちたまえるなり」と語る如くである。
まことに阿弥陀仏とは、超越にして内在、内在にして超越なるものである。かくして、阿弥陀仏に出逢う為には、この現実の自己自身の実在の相について深く問い、それを内奥に向かって究めてゆくというほかはない。
まさに「仏道をならふというは、自己をならふ」(道元・正法眼蔵)ことにきわまるのである。親鸞もまた同じように、仏法とは、もっぱら「自心を悟らしむ」 るものであると明かすところである。そこで自己を学び、自己を問うとは、いまここなる現実の自己自身の実存の相について問うことである。 |
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