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| 聴 法 録 222 |
聴法録222-1
私の存在の実相とは、根源的に無明煩悩の存在である。
より具体的に言えば、私は無始以来、初めなきその初めから、罪業深重にして、ひとえに地獄一定の業道を生きつつあるのである。そのことは、人間の意識の問題でもなければ、理性の問題でもない。私自身の日常的な存在構造の直下を深く掘り下げたところに、その自我、自我の殻が真っ二つに割れてくるという態に於いて、はじめて顕わとなってくるような、もっとも根源的な私の実在の相についていったものである。
親鸞は、「一切群生海無始より以来、乃至今日今時に到るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし」といっている。私が罪業深重であるとは、一切群生海において、また無始以来に於いて、すなわち、一切の空間的な広がりと、一切の時間的な流れを尽して、まったく例外なしに、すべての有情とすべての歴史における罪悪深重性であって、そこには如何なる微小なる一点に於いても、清浄性、真実性は存在しえないし、その可能性もない。そういう構造に於いて、この私自身は、その全分を上げて根源的に地獄必堕の存在であるというのである。
このように自己の真実への反逆性、すなわち、その罪業性への自覚は、自己が自分自身の相を徹底して問うという方向に於いて成立するのであるが、それはまた、たんに自己によって見られた自己の相ではない。自己が自己自身を問うところでは、そこで見られた自己とは、問う自己がなお残存していて部分的、観念的な自己でしかなく、まことの自己の全相は捉まえられてはいない。自己の本質、自己自身のまことの実存の相は、決して対象化されるものではなく、そのかぎり、自己自身によって見ることは不可能である
それはあたかも自己の眼がその眼自身を見ることができないようなものである。眼が眼を見るためには鏡の前に立てばよい。鏡を通してこそ、鏡を見、鏡に見られてこそ、はじめて眼が眼を見ることが可能となる。今もそれと同じように、仏法を学ぶこと、阿弥陀仏の本願を学ぶことに於いてこそ、自己が直ちに自己自身の実存の相を見ることが成立してくるのである。
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