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             聴  法  録  223

聴法録223-2

阿弥陀仏の本願を学ぶとは、基本的には、その名号を称し、その名号を聴いていくことである。

名号を称す、念仏を申すということは、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのことみなもて、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞ、まことにておわします」と明かされる如くに、その念仏に於いて、この世界と人生における一切の日常的、世俗的な価値を、ことごとく、そらごと、たわごと、まことあることなしと思い知り、それを念仏の中に向かって選び捨ててゆくことである。そしてまた、それとひとつになって、ただいちずにこそ、念仏のみを、究極的な価値、華竟依として選び取りつつ生きてゆくということでなければならない。

「念仏成仏これ真宗」と明かされる本願念仏の道がここにある。問題は、そういう選びの念仏が、私自身にとって、どれほど確かに成り立ってゆくかということである。もとよりそのことは、ただ口に称名念仏すればよいということではない。そのようなひたすらなる選びの念仏に於いて、その名号を、自己の身にかけて聞いてゆくということこそ肝要である。

名号とは、すでに上に見た如くに、私の願い求むべき究極的な真実について命名されたものであり、それが「指月の指」であるところ、その称名念仏に於いて、いちずにこそ究極的な真実、華竟依を選び取ってゆくべきであるが、その名号はまた、そのまま真実それ自身の、私に対する告知の名乗り、呼び声としての告名の意味を持つものであるところ、その念々の称名念仏に於いて、仏の告名を聴思し、真実にふれ、真実に出逢ってゆくということこそ重要であり、ここにまことの称名念仏の意味が存するわけである。

かくして親鸞が教えるところうの本願の称名念仏とは、私から仏への方向に於いてなりたつ称名が、そのまま、仏から私への方向に於いて成り立つところうの聴名であるということ、すなわち、私における声々の称名念仏が、そのまま仏の私に対する「本願召喚の直命」であるという意味を持つものであったのである。

その点、私の称名念仏においては、常にその告名が、私にとって、どれほど深く聴思されていくか、いかに確かに聴聞されているか、ということが問われてくるわけである。

まことの称名とはそのまま聴名にほかならないのである。