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| 聴 法 録 224 |
聴法録224-3
そしてその聴名ということは、すでに親鸞が、その聴名の聴くについて、「経に聴くというのは、仏願の生起本末を聴いて疑心あることなし、これを聴というなり」と示す如く、仏願の生起としての、地獄に堕つべき私の存在の実相を聴き、そしてまた、その私のために起こされた仏願の本末、大悲の始終を聴き、その二つのことを一つにして、自己自身に於いて主体的に領解、信知してゆくことである。阿弥陀仏の本願を学び、名号を聴くというも、それはたんに阿弥陀仏の本願や名号について、客観的、対照的に思惟し、理解してゆくことではない。
それはひとえに、その教法を聴思することを通して、自己自身の実存の相について究め、その虚妄性、罪業性について目覚めてゆくことにほかならないわけである。そしてこのように自己の実存の相に目覚めてゆくところ、それに即して、仏の本願、大悲を領解することができるのであり、またその仏の真実にふれることに於いてこそ、それと同時に、よく自己自身の迷妄に目覚めてゆくこととなるのである。
自己の姿がよく見えてくるということは、すなわち、鏡がよく見えてくるということであり、鏡がよく見えるということは、すなわち、自己の姿がよく見えるということである。そのことはさらにゆうならば、この自己自身の実存の相が根源的に虚妄であると否定されることに於いてこそ、仏の真実性が確かに領解されてくるということである。この自己の存在が虚妄と見定められ、この現実の人生が、そらごと、たわごとと自覚されない限り、阿弥陀仏は決して真実在として明確になってこない。
この娑婆が、確かだと思惟し、そこに安住している限り、浄土はかすんで確かに見えてこない。私の虚妄性と仏の真実性、娑婆の不確かさと浄土の確かさの信知、めざめは、まさに同時に相即して成立するものなのである。
大地の底に向かって井戸を掘れば、やがて必ず水が湧き出る。
いよいよ掘ればいよいよ湧き出てくる。
そして水が湧き出れば出るほど、逆に土が掘られて水が出てくる
仏法に導かれ、念仏を申して、自己を学び、自己を問うことに於いて、阿弥陀仏が私にとって向うから現成してくる。
阿弥陀仏が現成してくることによって、私が問われ、その実相がいよいよ明らかになってくる。
私の実相が明らかになればなるほど、阿弥陀仏もまたいよいよ明らかになってくる。
私が分かることに於いて仏が分かり、仏に出逢うことに於いて私は真の私に出合いうるのである。
自己自身の罪業についての信知と仏の大悲についての信知は、まさしく二種一具なのである。
私が阿弥陀仏に出遇うとは、ひとえにこのような構造に於いて成立してくるのである。
阿弥陀仏が存在するから私が信じるのではない。
私自身のまことの信心に於いてこそ、阿弥陀仏は確かに私にとって現成してくるのである。
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