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             聴  法  録  238

聴法録238-1

愛の本質は
無私であって、決して報いを求めず、善を施して悪を報いられても、愛そのものはそこなわれない。神は、神それ自身のために愛するのであり、神から賜物をうけるからではない。また人間や事物は、神の為に愛するのであって…即ち聖霊のまします神殿なるがゆえである。そうして無私なるにより、必然的に普遍性をもつ。故に無私あるところ、個人的利益に対する欲望、個人的損失または懲罰にたいする恐怖はない。
愛の第二の著しい特徴は、低位の形態の愛と違い、それが情感でない点である。即ち意志の一つの行動として始まり、純粋に霊的覚醒として、…その対象の本質に合一する「愛の知識」として完成するのである。それは思想、感情及び行動において「自我」を拒否する方向に、無欲及び無執着の方向に…苦難に遭遇しても、自ら哀れむ如きことなく、悪に報いるに悪をもってする思いを抱かずして、愉快にこれを受ける方向に、そして最後に超絶するとともに、超絶するが故に同時に全ての霊魂内に内在する絶対神に対して、不眠不休、一向専念する方向に意志を指向せしめる行為についてである。
愛の第三の特徴は謙遜である。謙遜は最高形態の愛に不可欠な必要条件でありそうして最高形態の愛は完全な自己否定のうちに謙遜がその極致に達することを可能ならしめる。故に謙遜あるところ、他人を責めず、他人を犠牲として自己の名誉を求めず、他人もまた自己と同じ弱点短所を持つことを認めると同時に、他人もまた、自己と同じく、神に帰一する知識を得ることによって彼ら自身を超越する能力あることを認めるのである。これら凡てのことから、愛は道徳の源であり、いささかなりとも愛あるところ、多くの悪が避けえられるとの結論が生まれる。
 
母としておのが生命を危険に投じてさえわが子、わが独り子を保護した、されば万物のあいだには無量の善意を有らしめたい相違し或いは反対する如何なる感情をも交えず汚されざる無量の善意を全世界に上に下に周囲に溢れさせよ人が覚醒時には常にこの心の状態を確固として保っていれば「この世においてすら神聖は発見されている」という諺は実現する。
 
愛ある人々の宗旨は
ほかの凡ての宗教と異なる
愛ある人々は凡て彼ら自身の一つの宗教と
一つの信仰をもっている。
 
霊魂はそれが生命を与える肉体の中にあるよりも寧ろ其の愛するところのものによって生きるなぜならばそれは其の生命を肉体の中に持たずして寧ろそれを肉体に与え、そうして其の愛するもののなかに生きるからである。
 
神は誰をも強制しない愛は強いることが出来ないからである。それゆえ神に奉仕するのは完全な自由な仕事である。