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             聴  法  録  239

聴法録239-1

万物の神的根源は霊的絶対であって、散漫な思想の用語では表現できないから、しかし(或る状態下に於いて)人間により直接に体験され且つ悟入されるという。この絶対は、インド教及びキリスト教の神秘的用語を以ってすれば、無形の神に他ならない。人間究極の目的、人間が存在する究意の理由は、神的根源と帰一する知識に至るところにある。そうしてこの知識は、「我を殺し」神を迎え入れる場所を設ける覚悟をした人にのみ訪れる。あらゆる存在物の絶対的根源は人格的一面を持つ。キリスト教の神秘者にたいすると表現不可能にして属性なき絶対神は、三位一体の人格神となり、その人格神には程度こそ甚だ卓絶しているにせよ、とにかく人間的な善、知恵、慈悲、及び愛の如き属性ありとの断定を可能ならしめる。大乗仏教は、仏陀の「三身」として説く。第一は、絶対の「法身」で阿弥陀仏、知恵光仏、無辺清浄光等としてしられる。第二は「報身」でインド教のイスブアラ、ユダヤ教、キリスト教及び回教の人格神に相当する。第三は「化身」または「応身」であって、物質的肉体であり、そのなかに、地上で生活する歴史的仏陀として又ロゴスが肉体となるのである。「主の祈り」の神に呼びかける冒頭の一句(天にまします、われらの父よ)を一語一語を解剖してみると、神的本性の無尽蔵の冨について多少しることが出来る。神は、われらのものである…われらの意識及び生命が、われらのものであると言うのと同じ程度の身近い意味で、われらのものである。しかし、内在的にはわれらのものたると同時に、また神は超絶的に人格的父であり、その父は所造物の父にたいして、愛と忠誠とを報いねばならない。(まします父よ)の動詞たる(まします)のみを取り上げて考えると、内在超絶の(一)であることが認められる。そうして最後に、神の存在は、(天に於いて)である。即ち神的本性は神が内在するところうの所造物の本性とは違うものであり、且つ同一の尺度を以って比較出来ない。この理由により、われらが多少なりとも神らしくなったときにのみ…われら自身の「人の国を追い去り」神の国を迎え入れたときのみ…にかぎられる。

「我らの国をさらしめよ」とは「神の国を来たらせ給え」の祈りから必然不可避に生ずる結論である。「自我」の多く存ずるところ、神の存在は少なからざるを得ない神的永遠を以って充実豊満せる生命は欲望と利己の生活、自己を中心として考え感じ求め行動する、生活から離れ…即ち斯かる不完全な分離している生活を意識して捨てた人のみ得られるそれらの唯一の価値は神聖に至る道の障害を取り除き神と我らを隔つものを破壊しそうして生命を与え且つ神聖化する神の霊がわれらの霊魂内に働くための道を開くにある。この神の働きこそ、霊魂内にある。神的生命を高め得る唯一のものである。神聖というのは好都合の部分も不都合の部分も一括して神から離れた「自我」を全体的に否定しおのが意志を捨てて神に向かうのである「われに」「われの」に執着かぎり神的根源に心を寄せ得ないし従って神的根源に帰一する知識も得られない我意を捨てるのは意思することを全く休むためでなくこの我意を去り尽くした精神及び肉体を道具としてそれを神的意志が「善」を為すために使用できるようにするためである。このことは或いはカビルのとおり「敬虔な求道者とはその心情のなかに於いてかのガンジス及びジヤムナ両岸の合流するが如く「愛」と「無執着」の二つの流れを合わせしめる物である、と言うことも出来ようわれらは特定のものへの執着を捨てぬかぎり「心をつくして精神をつくして神を愛する」ことは出来ないし、また神のために神の造り給いし凡てのものに普遍的な愛を注ぎ得ないそれは「善きものにも善からぬものにもその太陽は照らす」ところの真の神のごとき愛は個人的好嫌いに囚われている心にたって不可能だからである。