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             聴  法  録  241

聴法録241-1

或る回教修道者が、「神は、われ此処にありと決して答えたことが無い」との理由で、神の名を呼ぶのを止めるように悪魔から誘惑されたとき、預言者カージルは、幻のごとく現れて、彼に神の言葉を次の如く伝えた。
 
汝をわがつとめに召したるは、
われに非ずや?
汝をして、わが名を呼ばしめたるは、
われに非ずや?
汝が「アラー」(神)と呼ぶは、
「われ此処にあり」との、わが答えなり。
 
私が絶対神から「多」の世界に出てくると、その時一切のものは「神(人格的創造者)あり」と呼ぶ。これは私に祝福を感じせしめない。何故かというと、それによって、私は自分が所造物たることを覚えるからである。しかし「突き破った」境界にいるとき、わたしは一切の所造物を超越する。その際のわたしは人格神でもなければ、所造物でもない。私はかって在り、現在もあり、永遠にも残るところの私である。そこで私は、私を凡ての天使の上に飛躍せしめる衝撃をうける。この衝撃により私は、人格神が神の業を行なうが故に神なりという意味では、人格神が私にとって不足であるほど、私は、豊富になる。かく「突破」することに於いて、私は神と私とが共通するところの物を認める。その処における私は、かって在りしところのものである。その処における私は、不増不減である。なぜならば、その処における私は、万物を動かすところの不動なるものだからである。このところに於いて人は、彼が永遠に在るところのもの、永遠にあるであろうところのものを、再び獲得する。此処で人格神は霊魂のなかに迎え入れられる。
 
荘子
 道というものは、このなかに在るか、そのなかに在るかなどと問うべきでない在らざるところなし。万物のなかにある。故に、周・辺・という(みなあまねしの意味)・・・
万物は際限あるように定められているが、そのもの自体は、限られていない。無限である。また顕現するところについて見れば、道は様相の連続を起こすがそのものは、連続でない。原因と結果の作者であるが、そのものは原因結果でない。積散(生と死、状態の変化)をするけれども、そのもの自体は、積散でない。万物は、そこから現れ、そして其の影響下にある。それは万物の中にあるが、万物と同じでない。分化せず、また極限されないからである。


意識する
意識を一瞬たりともゆるめるな絶対に根本意識を内観する。
外に目が向いたらもう停まっているか退っていると知るべし。
 
誠にエホバ、ここにいますに、われ知れざるき。畏るべきかな、このところ。是れ即ち神の神殿に外ならず、是れ天の門なり。
 
心情がその失ったところのもののために泣くとき、真実の私はその得たところのもののために笑う。
 
人は先ず成人の汚れた「心だくみ」をわすれなければ神の造りたまいし、「自然」の本質的に神聖なる美を味わい得ない。
 
真実の私の生涯は時間と空間を超越している。唯、真実の私の力は意識によってのみ現われるから、意識のないときは肉体によって生活しているのだ。
 
現在という状態は、運命を決する大切な場所である。心のメモに今日はよい日今はよい時、この瞬間はよい瞬間だと明記せよ。
 
現在の生命のみ、神は住む、だから、現在は、人間には尊いのだ。この瞬間を浪費してはならない。この瞬間に輝く神の力を覆い隠さむために、人間は、その真実の私の全力をつくして生きねばならぬ。
 
人間は堕落した存在物であるから、内的光明と結合するに非ざられば、善をなし得ない。この内的光明は人間の内における救い主であって、罪の種子と同じく普遍的である。凡ての人は、キリスト者も異教徒も、無信仰者も全ての人にこの内的光明を賦与されている。神の前に義とせられるのは、この内的光明を拒否せず、彼らのうちに神聖なるものものの新生を許す人々である。
 
人間は、全て宇宙霊を母体として生まれる生命であってその外の何物から生まれたのでなく、又、他の何者の混入もある筈がないといえるのです。故に、絶対なる神は、一切に遍在し、全ての内に在り、一である。
 
「執着を捨て神のために行動せよ」