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             聴  法  録  242

聴法録242-1

真実の私の生命について先覚者たちは、自己についての知識がなけれが、神についての正しい知識は得られぬこと、常に覚醒していなけれが完全な解脱なきことに一致している。
事物は象徴、人は聖なる生命の神殿、凡ての行為は聖礼式。
人間のみならず事物までも聖なる生命の神殿たることを認めそうして、一切の行為と苦悩を常に「神にささぐ」べきだ。
 
霊的修業は無我と無執着と愛をもって神を愛し知り帰一するために行なう。
 
神と合一するための最も近い手段に至るための手段・・・即ち無我と愛に満ちた瞑想に至る手段である。
「神又は愛」
「罪及び神」
霊的修行は人が唯独りひそかなる室に入り戸を閉じ隠れたるところうにまします父に祈るとき人間の考えだしたものである。
 
私としては私の知っている唯一の完全は神を心から愛し隣人を己の如く愛することである。愛こそ、我らを神と人とに正しく結合させる、唯一の徳行であり、かかる結合こそ、われらの究境の目標であり帰着点であってそのほかの凡ては、妄想に過ぎない。
 
豚は椎実を食べる。しかしその椎実に生命を与えた太陽を考えず、それを養い育てた天の力をも考えず、またそれを生じたところの木の根についても考えない。
 
己れに受け難き人身を受けたるのみに非ず、遇い難き仏法に会い奉れる大恩を報謝すること、神仏に対しての務めであらねばならぬ。この所に在るが故に、自ら欲しさえすれば、神に囲まれ、神に属し神を受け入れ神に充たされるのである。
 
無我、無執着と愛によりて、身内および身外の神を知り帰一する。
 
罪、けがれ等多い身なれども、なをめぐみ幸わいて、我が内に、神住みたもう
我が内なる神現し働きになりますように。
我が内なる神を意識し頸現を妨げる「我」を滅ぼすこと。
 
我が内に神住みたもうと同じく、全ての人の内にも神住居し、一切万物の内にまします。
 
愛と喜びとで神は得られ保もたれる。
 
一刻一寸たりとも疎かにするな。
 
神と共に楽しみ 神と共に働く

好都合の部分も不都合の部分も一括して、神から離れた自我を全体的に否定しおのが意志を捨てて神に向かう。
 
己の欲情を節し、己を捨てて身を尽くす、汝が汝自身を捨てることを学びえたとき、汝は「愛するもの」即ち神に到達することを知れ、このこと以外学ぶべき秘義はない。
 
神我に在り、我神に在り。
何ぞ我を善しというや、善きものは唯独りのみ。
 
神は瞑想に於いて、彼れ自身まで引き上げる。
 
神の国とその正義を求めよ
 
神は我が内にまします、全ての人々のうちにまします、我が子を愛する親の如く我が内にまします、この肉体は神の神殿なり。神は愛なり。愛なるが故に、愛より出でたる我が願いを聞きたもう、信仰薄き人々にとっては、神仏は、神社に居、祭壇に居ると信じる・しかり・その通りなり。何故ならば、神は全てにましますからなれど我が神はわたくし自身の神は我が内にまします、信じるものは幸福なり。自分の父母を呼ぶように内なる神を呼び給え、かならず、かならずこのことを信じ給え。
 
あらゆる可能性を考えてみても一つの幸せ、一つの不幸があり、その他の幸せ、不幸はありえない、一つの不幸とは、それ自身のままでいる、自然及び所造物であり、幸福とは、自然及び所造物に顕現した「神の霊、光明、生命」である。これこそ「ひとりのほかに善きものはなし即ち神なり」の真の意味なり。
 
父なる大神は、我が幸福のために内在したもう。我が内なる神は私の幸福のために内在したもう神なり。神一元の世界なり。神以外実在なし、瞬間ごとに、神は我にそそぎたまい、現し働きたもう神と一体化し神の法則に支配されている。人々の内にいる神と一体化せん。己を捨てよ。
 
神は無限の全体であり、人間はその限られた一部分であると自己を意識する。実際存在するのは神のみである。人間は物質時間及び、空間の中における神の現われである。或る個人における神の現われが(生命)が他の存在における現われ(生命)と結合することの多ければ多いほどその人は益々多く実在する。この己の生命と他の存在の生命との結合は愛によって行なわれる。神は愛ではない。しかし愛が多ければ多いだけ人間はより多く神を現しより現実に存在する。我々は我々における神の現われを意識することによってのみ神を認める。この意識から出発した全ての結論とそれに基礎を置く生活の指導とは完全に、人間を満足せしめる、神そのものの意識に於いてもそれに基礎を置く己の生活の指導に於いても。