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             聴  法  録  243

聴法録243-1

真の信心というのは、限りなく遠い存在であり、決して私にある筈のない仏にいまここで私において、私に即して出会う、発見すること。そういう出会い「目覚め」がそういう私の体験が信心だと思う。
 
親鸞は信心を二通りに言っている。人の話を聞いて、やっぱり私達は仏法を学ばなければならない、やがて死んで逝くんだから、死に対して何かを勉強しておかなければならないと、思った時に、仏教の学びが始まる。それは何かを当てにして信ずることからスタートします。それは人の言葉を、その教えを信じるのです。しかし、これは信心と言ったて「目覚め」ではないんです。思い当たっていないのです。知的に分かっているだけです。例えば「父の恩は山より高い」と言う場合その話をまず聞かなければならない。その聞いた話が具体的な人生生活の中で思い当たってくる「ああ、そうか」と思い当たる「目覚める」という世界が本当の意味の信心なんです。だから信心と親鸞が言っているのは深い意味をもっているのです。知的に概念的に知ることと、体験的、経験的に知ることとの違いを言うんです。この深まりが仏教を学ぶということです。
 
信じるということは、何かが見えてくる「目覚めてくる」ということですが、目覚める、何かが見えて来るということは、人格的には、何かが、どっかで変っていくことだと思う、変るということは、皮が取れてそうして何か内なるものが育ってくる。こう膨らんで成長していくということだと思う。信じるということは、見えて来る、解ってくることである。その解ってくる、見えてくるというのは、何らかの意味で人間変革が生まれてくることで、皮を脱ぎ、そして成長していくという、そういう一連の私の生きざまに、影響をもたらしてくるものである。すなわち、人格の根本を育てていくというものが信心の本質だと思う。
 
信心という時にとかく私達は、神様、或いは、仏様と私というふうに、二元的に捉え勝ちですが、仏というものは、私を離れて私の外に二元的に捉えられるべきものではない。
 
阿弥陀仏とは、自己をはなれて如来なく、如来のほかに自己はなしという、如来に絶対的に依止して立つ、まったくの根本的主体において自覚されるものである。このことは、「私共は神仏が存在するが故に神仏を信ずるのではない。私共が神仏を信ずるが故に、私共に対して神仏が存在するのである」というところに、見事に表明されている。そしてここにこそ、その精神主義の至極があったわけであろう。
 
そして「自分にも本願」がある。自分の本願ということを照らし出して下さるのが、阿弥陀仏の本願である。仏の本願といったら、虫けらのような我々にこそ本願があることになる。阿弥陀仏に超世の本願があるならば、私ども一人一人にも皆、超世の本願がある」といい「私どもと阿弥陀仏とが無始久遠の昔に一つものだ、ということを教えて下さっているのが本願ということであります。」と領解するのである。
 
このような思索は、『我如来を信ずるが故に如来まします也』。信あるがゆえに如来まします。
 
信のないところには如来ましまさない。
「信のあるところに如来まします」といい、
また「信ずるということを離れて、如来まします」ということは考えられない。
信じられない人には、全く如来などということはわからない。というところに帰結するものであろう。
すなわち、「阿弥陀仏の光明を見ることができるのは、光明が外から来るのではなくて、実に自分等の内にあるからでなくてはならぬ。外から来て自分等に見えるものは、どこまでも外のもので、自分等を動かすものであり得ない。
 
外のものは自分等に対して立っている。
それ故に、両者の間には、越え難き塹溝がある。これはどうしても渡れるものではない。それ故、こちらはあちらによりて動かされない。それでも動かされるということのあるのは、外のものが内のものであった時である。外が内になるは横超である。
この横超の故に、吾等は光明を見ることができる。光明を見ると云うのは、それを外において、眼で外物を見る如くに見るのでなくて、内に感ずることである。つまり、光明が吾等のうちに動く、それを感ずるのである。自分の眼で外の物を見る場合の如く、感性的確実性がそこにあるので、それで見ると云う。「見るは、感ずるのである、信ずるのである、証するのである」。
そして、この阿弥陀仏の教説において、それが多く有相的、感覚的に表現されているのは「俗世間の言い草にしばらく妥協したもので、それを文字通りに解したら体験の事実は大いに歪曲せられてしまう。吾等はいつも二元の世界に居て話しするから、何事もそんなふうになって来る。殊に真宗の立場−−−教相なるものーーーは、この立場を絶えず顧みて行こなうとするから、浄土の如実相を解せんとするものは、深く心をここに致さなければならぬという。