本文へジャンプ
             聴  法  録  246

聴法録246-1
生涯の掟
高慢は、凡夫の持つ不治の病である。百千の善根功徳も一つの高慢によって滅ぶ。

憍慢の頂きに法水流れず

 

私たちは凡夫であるかぎり、だれでも六大煩悩といって、貪・瞋・痴・慢・疑、悪見という大きな煩悩をもっているといわれている。その中で「慢」というのは〈高ぶる心〉〈慢心〉〈他と比較する心〉を意味する煩悩である。

ところで、学校で学び、高等教育を受け、あるいは今日のようにマスコミで毎日いろいろな情報が山ほど入って、いろいろなことを知ってくると、次第に慢の煩悩が増大してくるように思われる「俺はものをよく知っている」「私はものごとがよく分かっている」といういわゆる〈我かしこし〉という思いが強くなってくる。人間はいろいろなことをったり学んだりすると憍慢になりやすいのだと言えよう。
明治時代以前なら、学問をする人は支配層とか僧侶などで、彼等が知識人であり、あとの農民とか漁民とか職人層は、学問がしたくても学ぶ機会は極めて限られ、またそのゆとりもなかった。だから、生活に必要な知識以外のことは知識人から教えてもらう外なく、自分たちは物事をよく知らないという気持ちがあって〈お上〉や僧侶などの言うこともある程度、頭を下げて聞いていたのであろう。だから僧侶から仏教の話を聞いて〈そういうものなんだ〉とわりと素直に受け入れていくこともできたのではなかろうか。

ところが、現代は、知識を
得る機会はほぼ均等で、だれにでも開けている。しかも、知識は学校だけではない、新聞やテレビやインターネットなど、さまざまな処から得ることができる。こうして物事をたくさん知るようになってくると〈私もけっこう物知りだ〉と思うようになってくる。そしていろいろな社会の出来事にたいして(私はこう思うとか)〈ああいっているが私はそうは考えない〉というように、皆が小さな評論家のようになってきている。知識とか教養とか情報をたくさん知ることは悪いことではないし、生活をいとなむ上で役に立つことも多いであろう。

しかし、知識や情報が増えることはそれによって慢の煩悩を増大する縁になる場合が多い。

そうなると、仏教の話を聞
いても〈私はものをよく知っている〈我賢し〉という〉思いが強いから、仏教の話も情報の一つぐらいにしか考えない〈仏教もそれも一つの考えだ〉とか〈仏教もなかなかいいことをいうじゃないか〉とか、悪くすると〈阿弥陀さんとか極楽浄土というようなのは昔の人の考えたもの〉ぐらいにしか受けとらなくなる。中には仏教はこうであるキリスト教はこうである、天理教はこうである、イスラム教はこうであるという風に、やや専門的な宗教知識を持っている人もある。しかし、彼にとってはさまざまな宗教は展覧会の展示作品のようなもので、それらをただ眺めて批評しているだけで、自分がそれに帰依しているわけではない。展覧会場の絵は自分の所有している絵ではないように、宗教の知識はあってもそれは単なる教養や雑学であり飾り物でしかない。ところが、こういう現代人も自分の無知無能、愚かさに気がつくときがある

それはいろいろな悲しいこ
とややりきれないことにであって、もがくより仕方がないようになったときである。昔から子供を亡くすとか、大きな病気をするとか、失恋するとか生計に行き詰まるとかそういう出来事にぶつかると、自分の今までの知識や教養などはふっとんでしまっておたおたし〈いったい私は、どうしたらいいのか〉という壁にぶつかる。そういう時に自分の無知無能さが身に浸みてくるのである。また、そういう逆縁にあわずとも、どんな人も人生の足もとに目をむけると、自分自身が本当は、全く分からない不透明な中に置かれている存在であることが知られてくる。

人生の足もとの問題とは、端的に言えば〈私はどこからこの世に来て、私自身は何であり、そしてこの人生が終われば、私はどこへどうなっていくのか〉という問題である。これは決して哲学者とか思想家だけの問題ではない。いやしくも人である限り、人はこの問いの中にあり、この問いに問われているのである。「私はどこから、この世にやって来たのか、生まれ出たのか、分からない」また「いろんなことを知り、話たり、聞いたり、喜んだり悲しんだり、損したとか得したとかいっている、私そのものは一体何なのか。手も足も胸も脳みそも私自身とは思えない。では私とは何なのか、それが分からない」あるいは、「人生いろんなことがあり、いろんな人と出会い別れていく。やがて身体はむくろになるであろうが、私自身はどこへいくのか、分からない」というような問題である。私そのものは何であるのか分からないということは、結局人生とは何なのか、分からないということでもある。ガソリンは1リットルいくらぐらいかとか、今飲んでいる薬は何に効くのかとか、最近の本のベストセラーは何かという類の情報は山ほど知っていても、一番身近な、一番基本のことが丸で分かっていない。こういうことに気がついてくると〈自分は大事なこと、は何も知らない、本当に無知な存在だ〉と、身に浸みて知られてくる。こうして自分の根本的な無知さ、愚かさに気がついてくると、初めてブッダ釈尊など聖賢の言葉に対して、素直に聞くようになってくるのではなかろうか。いわば憍慢心がくだかれてきて、仏の教えに真剣に耳を傾けるようになるのだと思う。