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                聴 法 録 25

聴法録25-1

仏法は、よりよい人間になるための教えではないのです。仏法は、自分を知るためにあるんです。仏教で説く、「自分を知る」と言うのは、反省することでなくて、内省すことなんです。内省すると言うことは、自分の内側に目を向けて、自分の心を観察することです。反省はエゴのすること。内省は、そんなエゴを見つめることです。

私たちは、エゴを何とかして、よりよい人間になろうとするから、エゴに騙されるのです。エゴは、私たちの手に負えません。そんなエゴには、手を出さないのです。そうでなくて、心の中でエゴが動いたら、すぐに気付くと言うことが大事です。
この「気づく」ということが、なかなか難しいのですが、善悪、損得、正邪なんかを考えている時には、要注意です。つまりは、あらゆるプラスとマイナスのものに、「エゴ」は、つねに自分をプラスの側において考えますから、それが「気づく」手がかりです。

エゴが動いたことに気付いて、エゴに支配されている自分をじっと見つめるだけです。反省するのではないのです。反省は改善を目指すものです。自分の都合に合わせて、次の手を考えるのが、反省です。いろいろ反省ばかりしているから、気付きが深まらないのです。エゴに支配されている自分を見るには、自分を外から見る視点を持たなければなりません。その、エゴの動きに目ざとく気づき、「自分の外に立って、自分を見る目」、それを育てるのが、仏法を聴くと言うことなんです。仏法が目指しているのは、自分が見えるようになること、煩悩まみれのお粗末な自分が見えるようになることなんです。そんな自分の姿が本当に見えたら、もう安心なんです。

自分自身への気づきが深まっていくと、仏の手の掌の上にいることに気付く。煩悩の身のままで、仏に包まれている。「煩悩即菩堤」ですね。これが、私たちの「いのちの真実」です。仏教は、この「いのちの真実」に気づいて、安らかに生きよと教えているのです。

こんなことを言いますと、「なるほど、そういう理屈か」と何かわかったような気になってしまうものですが、私たちは、理屈だけでは救われません。「いのちの真実」への道は、聴法とお念仏の生活の中で、自分自身への気づきが深まらないと、開けてこないものなんです。