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| 聴 法 録 250 |
聴法録250-1
我が信念
私は、常々信念とか如来とか云う事を口にしていますが、その私の信念とはいかなるものであるか、私の信じる如来とは如何なるものであるか、今少しこれを解説しようと思います。
私の信念とは、申すまでもなく、私が如来を信じる心のありようを申すのであるが、それに就いて、信じると言う事と如来と言う事と、二つの事柄があります。この二つの事柄は、丸で別々の事の様にもありますが、私に有りてはそうではなくして、二つの事柄が全く一つのことであります。私の信念とはどんなことであるか、如来を信じることである。私の言うところの如来とはどんなものであるか、私の信じる所の本体である。分けて言えば、能信と所信との別があるとでも申しましょうか、すなわち、私の能信は信念でありて私の所信は如来である、と申して置きましょう。あるいはこれを、信じる機と信じらるる法との区別である、と申してもよろしい。しかし、能所だの機法だのと云う様な名目を担ぎ出すと、かえって分かることが解らなく恐れがあるから、そんなことは一切省いておきます。
私が信じるとはどんな事か、なぜそんなことをするのであるか、それにはどんな効能があるか、と云う様ないろいろの点があります。先ずその効能を第一に申せばこれを信じると言う事には、私の煩悶苦悩が払い去らるる効能がある。あるいはこれを救済的効能と申しましょうか。とにかく、私が種々の刺激やら事情やらの為に煩悶する場合に、この信念が心に現れる時は、私はたちまちにして安楽と平穏とを得る様になる。その模様はどうと云えば、私の信念が現れ来るときは、その信念が心いっぱいになりて、他の妄想妄念の立場を失わせることである。如何なる刺激や事情が侵してきても、信念が現在している時には、その刺激や事情がちっとも煩悶苦悩を起きることが得ないのである。私の如き感じ易きもの、特に病気にて感情が過敏になりているものは、この信念というものがなかったならば、非常たる煩悶苦悩を免れぬことと思われる。健康人にても苦悩の多き人にはぜひこの信念が必要であると思う。私が、宗教的にありがたいと申すことがあるが、それは信念の為にこの如く現実に煩悶苦悩が払いさるの、喜びを申すのである。
第二。なぜそんな如来を信じると云う様な事をするのか、ということについては前に述べるが如き効能があるから、というてもよろしいが、なおそれより外の訳があるのである。効能があるからというのは、すでに信じたる後の話である。まだ信じざる前には、効能があるかなきかは分からぬことである。もちろん、人の効能があると言う言葉を聞いて、信じられる訳ではないが、人の言葉を聞いただけではそうであろう位のことが多い。まことに効能があるかないかという事は、自分に実験したる上の話である。私が如来を信じるのは、その効能によりて信じるのみではない。その他に大なる根拠があることである。それはどうかと云うに、私が如来を信じるのは、私の智慧の究極であるのである。人生のことに真面目でなかりし間は、おいて云わず、少しく真面目になり来たりてからは、どうも人生の意義について研究せずには居られないことになり、その研究がついに人生の意義ついて研究せずには居られないことになり、その研究がついに人生の意義は不可解であると言うところに到着して、ここに如来を信じるということを惹起したのであります。信念を得るには、この如き研究を要するわけでないからして、私がこの如き順序を経たのは、偶然のことではないか、と云う様な疑いもありそうであるが、私の信念はそうではなく、この順序を経るのが必要であったのであります。私の信念には、私が一切のことに就いて私の自力の無効なることを信じる。という点があります。この自力の無効なることを信じるには、私の智慧や思案のありったけを尽して、その頭を挙げ様のない様になる、と言う事が必要である。これが甚だ骨の折れた仕事でありました。その究極達せらるる前にも随分、宗教的信念はこんなものである、と云う様な決着は時々出来ましたが、それが後から後から打ち壊されてしまったことが、いくどもありました。理論や研究で宗教を建立仕様と思っている間は、此の免を逃れませぬ。何が善だやら悪だやら、何が真理だやら非真理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分かるものでない。我には何も分からないとなったところで、一切のことを挙げて、ことごとくこれを如来に信頼する、と言う事になったのが、私の信念の大要点であります。
第三。私の信念はどんなものであるかと申せば、如来を信じることである。
その如来は、私の信じることの出来る、また信じざるを得ざる所の、本体である。私の信じることの出来る如来と云うのは、私の自力は何等の能力の無いもの、自ら独立する能力の無いもの、その無能の私をして私たらしむる、能力の根本本体が、すなわち如来である。私は、何が善だやら何が悪だやら、何が真理だやら何が非真理だやら、何が幸福だやら何が不幸だやら、何も知り分ける能力のない私、随って、善なの悪だの、真理だの非真理だの、幸福だの不幸だの、と言う事のある世界には、左へも右へも、前へも後ろへも、どちらへも身動き一寸することを得ぬ私、この私をして、虚心平気に、この世界に生死することを得しむる、能力の根本本体がすなわち私の信じる如来である。私はこの如来を信ぜずしては、生きていられず、死んで往くことも出来ぬ。私はこの如来を信ぜずしては、居られない。この如来は、私が信ぜざる所の如来である。
私の信念は大略この如きものである。第一の点より云えば、如来は私に対する無限の慈悲である。第二の点より云えば、如来は私に対する無限の智慧である。第三の点より云えば、如来は私に対する無限の能力である、かくして私の信念は無限の慈悲と無限の智慧と無限の能力との実在を信じるのである。無限の慈悲なるが故に、信念の確定のその時より、如来は私をして直に平穏と安楽とを得さしめたもう。私の信じる如来は、来世を待たず現世に於いて、すでに大いなる幸福を私に与え給う。私は他のことによりて多少の幸福を得られないことはない、けれども、如何なる幸福もこの信念の幸福に勝るものはない。ゆえに、信念の幸福は、私の現世における最大の幸福である。これは、私が毎日毎世に実験しつつあるところの幸福である。来世の幸福のことは、私は未だ実験しないことであるから、ここに述べることは出来ぬ。
次に、如来は無限の智慧であるがゆえに、常に私を照護して、邪智邪見の迷妄を脱せしめたもう。従来の慣習によりて、私は知らず識らず、研究だの考究だのと、色々無用の論議に陥りやすい、時には、有限粗雑の思弁によりて無限大悲実在を論定せん、と企てることさえ起きる。しかれども、信念の確立せる幸には、たとえ暫くこの如き論議を捨てることである。「知らざるを知らずとせよ、是れ知れるなり」とは実に人智の絶頂である。しかるに、 我らは容易にこれに安住することが出来ぬ。私の如きは、実におこがましき意見を抱いたことがありました。しかるに、信念の幸恵により、今は「愚痴の法然房」とか、「愚禿の親鸞」とか云う御言葉を、有難く喜ぶことが出来、また自分も真に無知を以って甘んじることが出来ることである。私も以前には、有限である不完全であると言いながら、その有限不完全なる人智を以って、完全なる標準や無限なる実在を研究せんとする、迷妄を脱却し難いことであった。私も以前には、真理の標準や善悪の標準が解らなくなっては、天地も崩れ社会も治まらぬように思う事であるが、今は、真理の標準や善悪が人智で定まるはずがない、と決着しております。
さてまた、如来は無限の能力であるが故に、信念に入りて大なる能力を私に付与し給う。私等は通常、自分の思案や分別によりて進退対応を決行することであるが少し複雑なことになると、思案や分別が容易に定まらぬようになる。それがために、段々研究とか考察とかいう事をするようになると、而して前に言うが如き標準とか実在とか云う様な事を求めることになりて見ると、行為の決着が次第に難しくなり、何をどうすべきであるやら、ほとんど困却の外ないようなことになる。言葉を慎まなければならぬ、行を正しくせねばならぬ、法律を犯してはならぬ、道徳を壊してはならぬ、礼儀に違うてはならぬ、作法を乱してはならぬ、自己に対する義務、他人に対する義務、家庭における義務、社会における義務、親に対する義務、君に対する義務、夫に対する義務、妻に対する義務、兄弟に対する義務、朋友に対する義務、善人に対する義務、悪人に対する義務、長者に対する義務、幼者に対する義務倒、いわゆる人倫道徳の教えより出づる所の義務のみにても、これを実行することは決して容易なことでない。若し真面目にこれを遂行せんとせば、終りに「不可能」の嘆きに帰すより外なきことである。私はこの「不可能」に突き当りて、非常なる苦しみを致しました。もしこの如き「不可能」のことの為にどこまでも苦しまねばならぬならば、私はとっくに自殺を遂げたでありましょう。しかるに、私は宗教によりてこの苦しみを脱し、今は自殺の必要を感じませぬ。すなわち、私は無限大悲の如来を信じることによりて、今日の安楽と平穏とを得ている事であります。
無限大悲の如来は、いかにして私にこの平安を得しめたもうか。外ではない、一切の責任を引き受けて下さることによりて、私を救済したもう事である。いかなる罪悪も、如来の前には少しも限りにはならぬことである。私は善悪邪正の何たるかを弁ずるの必要はない。何事も、私はただ自分の気の向かう所、心の欲するところに従うて、これを行なうて差し支えはない。その行いが過失であろうと、罪悪であろうと、少しも懸念することはいらない。如来は、私の一切の行為について、責任を負うて下さることである。私は、ただこの如来を信じるのみにて、常に平安に住することが出来る。如来の能力は無限である。如来の能力は無上である。如来の能力は一切の場合に遍満してある。如来の能力はじっぽうにわたりて、自由自在、無障無碍に活動したもう。私は、この如来の威神力に寄託して、大安楽と大平穏とを得ることである。私は、私の死生の大事をこの如来に寄託して、少しも不安や不平を感じることがない。「死生命あり。富貴天にあり」と言う事がある。私の信じる如来は、この天と命との根本本体である。
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