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             聴  法  録  252

聴法録252-1
「賢くなることばかりを教える世の中に、自らの愚かさを気付かせる教えこそ、人間の道である。」

「自らの愚かさをしるひとこそ、賢者である。」

善人になるより、悪人と気づくことの方が難しい、何故かというと、自分中心の眼しか持っていないからです。仏の光に照らされないと、真実の鏡に照らされないと自分が見えないのです。

智慧の光明、計りなし。

私自身を照らす働きになります様に。
当たり前がありがとうございますに変った時、感謝と喜びが満ちる。

われ生きるに非ず、我が内なる真実の生命、生きればなり。

真実の生命を呼ぶは、我ここにありとの答えなり。

大いなる命の働きによって生かされて生きている、内在する真実のいのちの働きによって生かされて生きている。そのこと信じる程度に従って真実の生命は、感応する。

己の身体さえ自分のものでは無いのに、自分の思い通りになるわけがない。真実の生命の我にまかせよ。との声に「はい」と言って頭を下げるのみ、私の物はなに一つもない。

甘いからいを、自ら知る、宗教もかくの如し。

真実の生命を呼ぶとき、「我ここに居る、側にいる、共にいるぞ、「我にまかせよ」ただ「はい」と頭を下げるのみ。

苦、病、老、死は真実の私を育ててくれる。

傲慢の頂に法水は流れず。

智慧の光明、計りなし、
私の煩悩を照らし出して頂きますように。

私に起きる、全てを受け取っていく。

頭が光るではない、顔が光るのでもない、真実の光はあしがひかること、足から光が出ること、汚い土の上を踏みしめて一歩一歩前に進んで行く、そのことこそ尊いのである。光の聖人たちは、足で歩きながら真実の智慧を深めていったのではないか。
表面的な智慧でなく真実の智慧を深める。

大いなる真実の働きに感謝しよう。当たり前にしていることは、皆、大いなるいのちの働きである。

大いなるいのちは、永遠のいのち、永遠の幸福、智慧の光明この他に何が必要であろうか、
それだけで十分である。

煩悩一杯、自我一杯の自分、これが我、かくのごとく我なり。

宗教では「私達の眼に見える世界は、眼に見えない世界に支えられている」と教えています。
私たちは、そういう「眼に見えない世界」があるという教育を受けてこなかった。実際に学ぶと言う事は大切なことです。学んでいないと、眼の前にあっても見えないと言う事があります。
学んでいないと、眼の前にあっても見えないと言う事があります。小さい頃から、「眼に見える世界がすべてだ」と教えられて育ちますと、「眼に見えない世界がある」とは、想像することさえ出来なくなってしまいます。そこで自分とは、この目に見える「身体」のことだと思い込んでしまうのです。

眼に見えない本質ではなく、眼に見える属性を見て、好き嫌い、善い悪い、損得等の属性を見てしまう。眼に見えない本性見るが出来るようにしなければならない。

大人の心だくみを棄てておさな子の如くにならなければ大いなるいのちの国に入ることは出来ない。