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             聴  法  録 253

聴法録253-1

もし真実のいのちをみたいならば、自分は身体ではないことを固く信じなくてなりません。
自分を身体と同一視することは、まさに幻想です。生まれた時から自分を身体と同一視することに慣れてしまっているのです。
「私」の原理は、全ての基盤、内在する真実のいのちのみ、真実のいのちは、内在する真実の私のみである。

われ生きるに非ず、我が内なる真実の生命生きればなり。

信じる程度に応じて真実の生命は感応する。

不幸や災難は、私達の内に隠されている真実の生命のもの、不死のもの、克己的のものを覚醒させる何ものかである。不幸や災難は、又、私達の生命の基礎ともなる。これ等の意味は不幸と災難とは「内在する真実の私」を完全に展開させるものである。」ということになります。

真実のいのちは、私達の内に在って、私たちに幸福を探させている。だが、真実のいのちに、幸福とか、不幸とかということがあるだろうか。真実のいのちがさらに幸福そのものではなかろうか。人間が、自己に内在する真実のいのち以外の何物をも所有しなかったら、貪欲や、悪や
、嫉妬はなくなって絶対的の幸福が満ち溢れるであろう。人生にこれ以上の幸福はない。この幸福は、何ものにも奪われないものだ。

真実のいのちさえあれば十分である。それ以上のものはない。この事を信じて生きていくことが一番大事である。それ以上もそれ以下もない。

苦,病、老、死は、真実の私を育ててくれる。

内在する真実のいのちは永遠のいのちなり、永遠の幸福なり

私のために真実のいのちは内在する。

無償の愛に包まれている私。

私に起きる全ての事を引き受けて行くが真実。

全ての内に内在する真実のいのち現し働きになりますように。

真実のいのちは、永遠であり、光明であり、智慧であり、全てに満ち満ちている。恐れることは何物もない。

真の信心というのは、限りなく遠い存在であり、、決して私に有るはずのない真実のいのちに今ここに私において、私に即して出会う感応すること。そういう出会い「目覚め」が、そういう私の体験が信心だと思う。

この世は真実の親を見つけ一体化するまでのあがきです。

この世には、全て無駄なものは一つもない全て真実の親を探していく道中である。、