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| 聴 法 録 254 |
真実のいのちの光明を見ることは、光明が外から来るのではなくて、実に自分等の内に在るものでなくてはならぬ。外からきて自分等に見えるものは、どこまでも外のもので、自分等を動かすものであり得ない。外のものは自分等と対して立っている。それ故に、両者の間には、超え難き溝がある。
これはどうしても渡れるものではない。それ故、こちらはあちらによりて動かされない。
それでも動かされると言う事のあるのは、外のものが内にあった時である。
外が内になるは横超である。
この横超の故に、吾等は光明を見ることが出来る。
光明を見るということは、それを外に於いて、眼で外物を見るごとくに見るのでなくて内に感じるのである。自分の眼で外のものを見る場合の如く、感性的、確実性がそこにあるのでそれで見るという。
見るは、感ずるのである。。信ずるのである。証するのである。
真実のいのちによって、真実の私が育てられる。
信心という時にとかく私達は、神様、或いは、仏様と私というように、二元的にとらまえ勝ちですが、仏様とか神様というものは、私を離れて私の外に二元的にとらまえるべきものでない。
全て真実のいのち、大いなるいのちを母体として生まれてきた真実のいのちこそ真実の私であり、すべて一体なのです。
孤独と寂しさと悲しさを感じる時、外に解決を求めてはなりません。我が内なる真実の親に求めなさい。我にまかせよ、共にいるぞ、側にいるぞと呼ぶ真実の親に頼りなさい。苦しや悲しみがあなたを悩ます時、その解決を外に求めてはいけません。あなたの親であり、主人であり、先生である。内なる真実のいのちに祈りなさい。必ずあなたにあった方法で答えてくれます。信じて下さい。
有限の私の内に真実のいのち(永遠のいのち)を宿している。この事を信じる程度に応じて真実の生命は感応し現生する、真実のいのちこそ、永遠のいのちであり、永遠の幸福であり光明である。永遠をかけて探し求めるべきものである。
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