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             聴  法  録 256

聴法録256−1

バカになりて大いなる生命に帰る。
大いなる生命と一体になろうと、人の教えを聴き、色々考えたがどうすることも出来なくなってしまい、前にも後ろにも、左右にも動きが取れなくなってしまった。その時「我ここに居る、側にいる、共にいるぞ」「我にまかせよとの声がした」私はただ「はい」とのみ答えて頭を下げた。利口になることのみを教えるこの世の中でバカになる教えに会うことは、非常に難しい。これしか救われる教えはない。その教えに会うことは、求めて、求めて一生かかってもなかなか会えるとは限らない。求めれば求めるほど慢心の心を強めて捨てるのに苦労する。「高慢の頂に法水は流れず

機法一体というが、機(煩悩)の方に気を取られていたがそれを照らし出す光明の方に気付くようにならなければならない。「智慧の光明はかりなし」煩悩照らし出す、智慧の光明の方に見方を変えていかなければならない。これは大いなる生命による、煩悩が見える時、そこに智慧の光明が働いていることを意識しなければならない。
煩悩は真実の私ではない。智慧の光明こそが真実の私(真実の生命)である。
人間のこの目に見える「身体」は煩悩が形になったのが人間であると言われている。それを本当の自分だと、勘違いしている。本当の私は、内在する真実の生命、永遠の幸福、智慧の光明である。形を取った自我と眼に見えない真実の生命を、真実の生命こそ永遠の私である。信じる程度に応じて真実の生命は感応し現成する。