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               聴 法 録 26

聴法録26-1

一呼吸、一呼吸に大いなる真実の生命の恩徳を意識せよ。
一息、一息に大いなる真実の生命の働きに感謝せよ。

空気と言うのは、人間が作ったものでない。空気を吸い。また吐き出す働きも、我々が作ったものではない。我々は、息を吸い吐きせしめられている。心臓も自分で動かしているのではない。我々が生きている根元が、すでに我が手を超えて他力の中にある。それに気づくのを信心というのだ。

真実の生命の大悲と言うのは、少しも我々に恩を着せないのだ。生まれてこの方、ずっと空気を吸ってきたが、いくら払えと空気から請求書がきたか。また、ずっと太陽の恩恵を受けて生きてきたのだが、太陽がいくらよこせと請求書を届けたことがあるか。
一番必要なものであるにもかかわらず、みんな無料なのだ。我々はそのなくてはならないものを有難いとは思っていない。それでも罰も当らず生かされているのではないか。
今、はからずも罰と言うことば使ったが、真実の生命は罰を当てるものではない。罰と言うのは自業自得と言うか、自分で招くものである。それを防止するのに祈願ということをやる。自分で招いておいて罰が当たらぬようにと祈るとは、厚顔にもほどがあろう。

我々が生きていく上に欠かすことのできないものが、ただの無料で与えられていることに真実の生命に感動すると、自分がやった些細なことを恩に着せずに済むのではないか。人間と言うものは恩に着せたがるものだ。「往相還想」とは分を知って分を尽くすことである。ろくでもないものが、もったいなくも真実の生命の大悲のただなかに生かされて生きていることに感動できると、自分がしてやる、してやったでなくて、させていただくという心が目覚める。これが分を尽くすと言うのでないか。念仏を唱えることが仏恩報謝ではない。己に与えられた能力の一切を恩に着せずに出し切るところにあるのではないか。
聴法録26-2

我が内にまします内的光明は、信じる程度に応じて現成する 。

内的光明が現成する程度に応じて、感謝と喜びの世界に入る。

条件が変化すると変わるような幸福よりも、いかなる時にも変化することのない
幸福こそ本当の幸福である。

南無は有限の世界であり、思議の世界なり。私である。
阿弥陀は内的光明、永遠の生命の世界であり。不可思議の世界なり
私の内にふたつが一つになっている。

思議の世界より、不可思議の世界に入る。
不可思議の世界より思議の世界に入る。

この世の中のなんと美しいことか木々も
草花も、人々もすべて光り輝いている。
すばらしい世界である。

せみの鳴き声が、永遠の生命の呼び声に
聴こえる。