|
|
| 聴 法 録 261 |
聴法録261-1
「私」がいて「仏」がおられて、その仏を私が「信じる」と云えばことは簡単ですが、それでは本物の宗教にはならない、信じる「私」がある限り、「仏」は何処までも私の頭の中の出来事に過ぎず、何処までも「私信じる」という条件のついた「仏」になってしまう。
そのような「頭に思い描いた」仏は、無量無辺でもなければ、不可称、不可説、不可思議ともいえない。頭で考えたことは、どれほど考え抜いても、結局、頭の中の出来事でしかないと言う事を肝に銘じるべきでしょう。
仏とは、無我ですから、無我から届けられる心「法」は無我であり、無我を受け止める心(機)もまた無でなければならない。よって、「私」という思いの絆につながっている限り、「仏の声は聞こえてこない。」
全てに満ち満ちている生命は、大いなる生命の回向による。そこには、自我はない。生命そのもの、のみである。「自我」は自分中心の考え、想像、欲望、名利、意志を生命そのものの廻向により光明により、照らし出された時、その時こそ、生命そのものがそこにいる証明である、一体である。
|
|
|